Zesty
ナイフを入れた途端に解放された鋭くしかし爽やかな香りが、ここ最近すっきりとしないティファの頭を覚醒させた。
香りを堪能するように、静かに息を吸い込みながら目を閉じる。
こうするとまぶたにもその香りの粒子が浸透していきそうな気がする。
セブンスヘブンの調理場で、ティファはレモンを切っていた。
店の定番のひとつであるひよこ豆とパセリでつくるシンプルなマリネには、新鮮なレモンが欠かせない。
数年前の混乱の時期に比べて物資の供給が安定してきたから、店で出すメニューもずいぶん幅が広がった。
肉や魚介類、卵に野菜、そして果物の流通も格段に増えた。
今まさに彼女が手にしているレモンやライムといった、食事において大事な脇役を務めてくれる素材も例外ではない。
ライムを絞ってカクテルに入れたり、櫛切りにして揚げ物に添えるのはもちろん、最近ではお冷のピッチャーにも輪切りのレモンを浮かべて風味を移して提供している。
ささやかな変化だが、気づいてくれる常連客も多く、評判がいい。
店を営む者にとって、こうした何気ない客の反応というのは嬉しいものだ。
快い香りに耽りそうになるティファの思考を、店の電話が中断した。
「急に悪ぃな。」
30分ほど前に電話をかけてきたシドが、カウンターの椅子に腰掛けながら言った。
WROの用事で急にエッジに来る用事が出来、そのついでにティファの店に顔を出そうと思い立ったということだった。
せっかく寄ってくれたのに、クラウドは仕事中だし、デンゼルとマリンは学校にいる時間なのが残念だ、とティファが言った。
「いーってことよ。長居もできねえし。シエラの奴がお前の様子見て来いってさ。」
意味を理解して、ティファが柔らかく微笑む。
「コーヒーにする?お酒がいいかな?」
「水くれ。昨日の酒がまだ胃に残っちまってな。俺もトシには敵わなねえな。」
そう言いつつ、朗らかに笑うシドにつられてティファも微笑む。
「了解。ちょっと待ってね。」
ティファにとっても、水は都合が良かった。
自分も今はコーヒーがおいしく飲めないから。
グラスに氷を入れ、冷蔵庫から取り出した炭酸水を注ぐ。
先ほど切っておいたレモンを絞る。
お互いの家族の様子だとか、最近の仕事の調子だとか、他愛のない話をした。
話の合間に、シドが煙草を取り出して、一本咥えた。
火を点けかけた手を、寸でのところで止めた。
「そうだったな。」
取り出した煙草を胸のポケットに戻す。
「いいのに、気にしなくても。」
「お前さんが良くてもクラウドの奴が黙ってないだろうなあ。」
シドはそう答えて、歯を見せて笑った。
ティファはまたつられて微笑んだ。
二人でほぼ同時にグラスに口をつける。
炭酸が口内で弾けて、快い痺れが走る。
レモンの香りが鼻腔から抜けていく。
開店前で客のいない店内に、氷の鳴る音が涼しく響いた。
粗野で口は悪いが、根は人が良く情に厚いシドをティファは頼もしく思っている。
あの旅最中にも彼女はそう感じたものだった。
特にクラウドとティファが一時期戦線離脱していた間など、仲間をまとめ、落ち込んでいた自分を励ましてくれたことが強く記憶に残っている。
親しみを含んだ憎まれ口は、どこかの忍者娘のそれによく似ている。
それを二人に伝えたら、口を揃えて非難(それにもやはり親しみを込めて)されるだろうから、自分の胸にしまっておこくことにしている。
バレットとはまた違う意味での、年の離れた兄のような、あるいは年の近い父親のような存在だった。
クラウドもティファも両親を失くしているから、家族や人生のパートナーとして手本にできる身近な存在がいない。
そういう点で、シエラと共に家庭を築いたシドの存在は、本人たちには伝えていないがティファには大きいのだ。
とはいえ家庭人になっても無精髭は相変わらずで、それがなんともこの人らしい、とティファは思っている。
「あ、雨。」
窓の外の様子に気がついたティファが言った。
糸のように細い雨が、聞き取れないくらい控えめな音で降っていた。
「天気雨かしら。」
雨につきものの暗さのない、温かい明るさの雨だった。
エッジに降る雨が、ティファは嫌いではなかった。
スラムにはなかった空がもたらしくてくれるものだから。
「じゃあまあ、本降りになる前に引き揚げるか。」
グラスの水を飲み干しながらシドが腰をあげる。
外に出ると、雨はもう止んでいた。
ガーゼのような雲が所々にかかる雨上がりの空は青く透明で、そのもっと向こうが見えそうな気がした。
「やっぱり天気雨だったらしいな。」
薄い雲の隙間から控えめに顔を見せる太陽の、それでも眩しい光に目を細めながらシドが言った。
路地や建物の屋根に残る雨の滴が光を浴びて揺れている。
街ごと炭酸水のグラスに沈んでいるような気分になる。
柑橘の香りがしてきそうだった。
「気をつけてね。」
「おう。」
「シエラさんたちによろしくね。」
「おう。ガキ共にもよろしくな。」
「はい。」
「じゃあな。腹冷やすなよ。」
この日何度目かの微笑を浮かべて、ティファは頷いた。
幸せそうな顔しやがる、とシドは思った。
ティファは雨上がりの気持ちのいい冷たさの中で、癖のある歩き方の後姿をしばらく見送っていた。
少し経つとその後姿の輪郭から煙草の煙が細く立ち昇った。
今まで我慢してくれていた心遣いが嬉しくて、遠くなる背中に小さくお礼を言った。