Young and Beautiful
もう夕方といっていい時間なのに、あたりはまだ明るい。さっき降った通り雨で、空気は冷たく冴えている。
街道の両脇に等間隔に植えられた木立は、同じように規則的に影を落とす。
光と影の中を交互に進んでいく姿を、俺もなぞる。
すらりと背の高い後姿には、長い髪が良く映える。
小川に沿って続く道で、ほどけた靴紐を結んだ俺を見届けて、そのまま先を歩き始めた彼女を見ながらふと思う。
同じ歩調でゆっくりと、あえて追いつかないようにして後ろを歩ていく。
こういう風に歩くことってめったにないな、と気付いたら、もう少し大事にしてみたくなった。
平野に伸びる町と町を繋ぐ街道。後に残してきた町が遠ざかっていく。反対側の町につく頃には、もう夜が深いだろう。
水がはねる音に、セリスは首を向ける。
平行して流れる川に浮かぶ水鳥が羽ばたきをして、そこを中心に波が広がった。
追い越しながら目で追うセリスを、俺は目で追う。
視界に入った横顔の、高い鼻筋を白んだ光が照らす。好奇心に満ちた子供のような表情だと思ったら、次の瞬間には、遠い記憶を想うような物憂げな目をする。
俺は今更どきっとする。
まわりの風景が陽炎みたいにぼやけるくらい、まったくもってきれいな女だ。
薄く重なる雲の層から垂れる太陽の光は、川の流れも、木立に残る雨の滴も、長い髪も、同じ色に染める。
心許ないくらい。
本当は手に入るはずのないもの── 例えば雄大な自然の景色みたいに、眺めていることはできても自分のてのひらには収まるはずのないもの。泡みたいに触れたら弾けて消えてしまうもの。
ずっと一緒にいるのにいまだに時々そんな風に思うことがある。
きれいな女なんてたくさんいるのに、その全員を好きになるわけじゃないのはなんでだろう。なれないのは。
なんでお前だったんだろう。俺だったんだろう。
「なあ」
呼びかければ、日の当たるところを歩きながらセリスは頭だけで振り返る。
これから先は?
「俺がよぼよぼのじじいなってもさ」
風が吹いて、木立に残った水滴が目の前で揺れる。
「お前は俺のこと好きかな?」
セリスは足を止めると、今度は体ごと振り返る。それから大人びた顔立ちで微笑う。
ゆっくり歩く俺との間が少し狭まると、セリスはまた歩き出す。
「そういう心配するのって、普通女の人のほうじゃない?」
歩く度に髪は弾んで、光の粒を散らすように揺れる。その声は愉しそうだ。
わかってるよ。
俺はもう剥き出しの魂を見せてしまったから。
それでも俺を選んだお前が、俺から離れるなんてことないんだ。
そう願ってみたいんだ。
「それに、その頃には私だってしわしわのおばあちゃんじゃない」
後姿が遠ざかって行くような感覚。
瞬きをしたら消えそうだ。
「だよなあ、そうなったら考えるかもなあ」
わざと軽口を叩くのはなんでなんだろう。
歩幅を少し大きくすればすぐに追いつく距離なのに、そうしないのは。
「あらそう」
肩を竦めて、また後姿は先を行く。
「嘘だって」
盛夏のそれよりも短い晩夏の昼。
夕暮れがもう来てしまう。
「しわしわになってもお前はきれいだよ、きっと」
セリスは止まる。
俺は近付く。
水鳥が作ったさざなみに、映った木立の影が揺れる。
振り向いた表情は呆れているけど、頬は寒さの中で遊ぶ子供みたいの頬みたいな色だ。
並木道の終わりはもうすぐだ。
手を伸ばせばもう触れられる。
「何それ、誰かみたいなこと言っちゃって……」
語尾はくぐもってきこえた。
俺が塞いだから。
嫌いになれるわけないんだ。
なんで好きかなんて理由なんかないから。
お前もそうだろ?
後にしてきた町のほうから、晩鐘が鳴る音がする。
唇を離せば、ゆっくりと開いた瞳にぶつかる。冴えた冬の海みたいな青い虹彩に揺れる瞳孔は、水中に咲く花みたいだ。
触れる頬は、雪と同じ色なのに熱い。
その表情は、少女と大人の間だ。
一人の一生のうちきっと限られた期間しか与えられないその儚い時期を、もうすぐ抜け出す。
どうしたの?
そう訊きたげな口許を遮るように抱き締めれば、吸い慣れた彼女の香りのなかに次の季節を嗅ぎとる。
夏の終わり。
秋が追いつこうとしている。
好きなんだよ。果てがないくらい。
永遠に掴めないもの。掴んだつもりでも、ほんとうは水みたいにこぼれていくもの。
だから捕まえてたいって願うんだ。