Wishful Thinking
聞こえてくる水の音を、雨ではなく浴室から響くシャワーの音だと認識するまで、起き抜けのぼんやりとした頭では数分かかった。夕べカーテンを閉めなかった窓から見える外はまだ薄暗い。この部屋も。
窓は濡れていない。
ベッドに横たわったまま、息を吸う。そこかしこに漂う気配。
仮に、植物状態か何かから目覚めてこの部屋に自分を見つけても、俺はこの空間を占める気配がティファのものだと、わかるような確信がある。 確信なんて、根拠がないことのほうが多い。
隣の枕はまだ少しくぼんでいる。昨晩どこに放ったか記憶が曖昧な服たちは、まとめられてベッド脇の椅子に掛けられている。
バスルームのドアは少し開いていて、薄暗い部屋のそこだけに明かりが差している。昨日は、全部閉まっていたのを思い出して、胸の奥の方にこそばゆいような嬉しさが広がるのがわかる。
目が覚めてからどれくらい経っただろう。まだ水音は止まない。
長い気がする。
いつまで経ってもティファの姿が見えないことに焦れただけ、と言われればそうなんだろうが、仕方ない。昨日ティファの頭の重みを胸に感じて眠った感覚が、たかが数時間前のことなのに懐かしくて、恋しかった。
ベッドから抜け、まとめられた服の中から下着とワークパンツを探し出し、身につけた。
「ティファ?」
言いながら、できるだけ軽くノックしたつもりだったが、開いていたドアは思いの外動いて開く角度を増した。
はい、ティファの声がシャワーの音にくぐもって聞こえる。
「いや、ごめん」
「ごめん、使う?」
「いや、いいんだ」
だったらなんで来たんだ、とティファは怪訝に思っているだろうか。
「大丈夫かな、と思っただけで」
返事はないが、首を傾げる姿が目に浮かぶ。
「いや、あんまり長く浴びると、肌ふやけないか?」
もっともらしいようでいて、意味も脈絡もないことを言いながら、頭を掻く。
水の幕の向こうで、ティファが笑った気配がした。それがなんとなく、ここにいるのが場違いではないことを彼女が認めてくれた気がしてほっとする。それから蛇口が閉まる音がして、水の音が止む。掻き消されていた換気扇の音がふいに浮かび上がる。
「ねえ、そこの、取ってくれる」
そこの、が意味するところが、自分が立っているドアの内側のフックに掛かったバスローブであることを理解するのに数秒かかった。白いシャワーカーテンの隙間からそれを渡すと、ティファの手が覗いて受け取る。ビニールのカーテンは完全ではないけれどそちら側の光景を隠していて、ティファの姿はぼやけた影でしか見えない。
カーテンを開けながら、バスタブを跨いでティファが出てくる。
ティファは背が高いから、ローブの裾は膝の上に留まっていたが、肩や袖は余っていて大きいようだった。髪はひとつに束ねられていたけど、飛沫で顔は少し濡れていた。
戸口に立ったままの俺の方に近付くと、
「しわしわじゃないでしょ?」
微笑みながらてのひらを向けて、指先を見せてくる。俺もつられて笑いながらその手を取って、身体をひいた。
手をまわして髪を束ねているゴムを解くと、部分的に湿った髪が白いローブの背中に散る。やっぱり少し濡れている前髪を払ってやると、ティファは少し見上げて笑う。
可愛いな、と臆面もなく思う。
目の前にある顔は、まだティファが幼かった頃、その頃の面影を濃く残したままに、年齢は大人になった顔なんだろうな、と思う。
頬から顎の骨格、額の形、眉と目の幅、小さい耳。全部がその下絵をなぞり、うつしとられ、形作られている。
よくよく考えると、幼いころ彼女の顔をじっくり見る機会なんて一度もなかったはずだから、どうしてこう思うのか不思議だけれど。あの約束を交わした時でさえ、照れからティファの方はあまり見れなかった。
「見すぎ」
気まずそうに笑いながら、ティファが目を逸らす。
実際、どれくらい凝視していたんだろう。苦笑しながら彼女のこめかみのあたりに頬を寄せる。
シャワーを浴びたばかりの肌は熱を帯びていて、ティファの周りに目に見えない温かい空間ができていた。こうして身体を寄せると全身に温かさが広がって、その安心感からか、俺は口を割る。
「正直に言うと」
ティファの顔が少し傾ぐ。
「目、覚めなければいいのにって思った。少し」
ティファは俺の肩口に頭を預けて、背中にまわしていた手を軽く握った。
「良かった。先に言ってくれて」
石鹸の香りに覆われていても、ティファはティファの香りがする。単に嗅覚だけで感じるものとは違う、第六感のような、うまく説明できない感覚。指紋のように一人一人が違うものを持っていて、俺がそれを捉えることができるのは、他でもないティファのものだからという以外に言いようがない。
「戻ったらさ…」
「ん?」
ティファの吐息が首筋を掠める。
「いや、いいんだ」
無事に戻ったら、話そう。そのときには、時間はたっぷりあるだろう。
希望的観測、には違いない。
生きて戻って来られる可能性なんて五分五分か、それ以下かもしれない。何も約束されているわけじゃない。
だけどどこかで、不思議な楽観で、俺たちは戻って来られると考えている自分がいる。こんなふうに思わせるのは、やっぱり腕の中の彼女に外ならない。
ティファがそばにいる、今よりは少しくらい穏やかな生活。そんな夢を見てもいい気がするのだ。
「恐さは、なくならないの」
ふと、ティファが息を吐きながら言う。声は震えてはいなかった。
「でも、いいんだよね」
答えるかわりに、背中を撫でる。それでいい。
ティファは顔を上げ長い睫毛の目を一度瞬くと、俺を見る。その瞬間には、淡く柔らかい空気が生まれて、俺は応えるように唇を重ねる。躊躇いも羞恥もない。あるのは愛しさだけだった。
ティファの着けているバスローブの、お世辞にも良いとはいえない感触の分厚い生地が、もどかしく邪魔だった。その下の肌に触れたかった。昨日初めて触れた、受け入れ、求めてくれた肌。
結び目に手をかけると、ティファが唇を離す。
「待ってよ。誰か来たら、」
そう言いかけて気付いたようだった。目元が寂しく翳ったけど、すぐに笑った。
夕べと同じ部屋、同じシーツ、同じ空間。外の音は聞こえないし、温度もわからない。開いたままのカーテンから、夜が終わっていく気配が忍び込んでくるのがわかるだけだ。俺の全神経がティファに向いている。
白い肌に血の色が透ける様子を白みはじめた光の中で見ると、彼女が生きていること、自分が生きていることを実感する。
肉体の快楽なんて一瞬だと思っていた。だけどこの時、この空間の記憶を、俺は永遠に忘れないだろう。一瞬の連なりが時間で、そのどこかに人は永遠を見出すんだろう。気付かせてくれたのは君だ。捉えた永遠は記憶に刻まれる。これは、二人の記憶だ。
今日この身体は終わるかもしれない。俺一人かもしれないし君と二人かもしれない。この星の生き物全てかもしれない。
それでもいい。最期の瞬間には君の顔が見たい。自分一人では自分の名前すらきっと思い出せない。でも君の声の記憶は失くさないだろう。あの時、七番街。君の声が俺を呼び覚ましたように。
ティファが記憶を失くしても、他の誰でもない俺が見つけてやりたい。君が精神の奥底で、俺を覚えていてくれさえすれば。
耳許で名前を呼ぶ。目許に口づけて目を開かせる。
吐息に紛れて、ティファが俺の名前を呟く。
自分の中の何かが目覚めたような感覚。こうやって君はいつだって、俺の中に新しい情動を生んでいく。雨の一粒が水面に弾けて、その飛沫が溶けるように、俺の中に馴染んでいく。
広がる波紋は身体の中心に震えを伝える。
星空が見えてくる。あの頃の俺たちが知ってる世界の全てだったあの小さな村。
宇宙の片隅、星の片隅、飛空艇の一室。二人だけの空間。君の香りが強く香った。
次第にあかるくなる朝日の中で、君の目が夕陽の色に光る。