窓辺
常夏の町の夜の寝苦しさに、私は眠るのを諦めてベッドを抜け出した。
外もまだ蒸すように暑かったけれど、時折吹く海の匂いを含んだ風が心地良かった。
昼間は焦がすような太陽の光を照り返す町も、今は夕闇の濃い青を纏っている。
宿の入口を出て道なりに進むと、そんなに高さはないけれど、眼下の町を見渡せる石造りの橋に繋がる。橋の欄干は、人が座れるくらいの幅がある。撫でると、ざらっとした石の感触が手に伝った。
何気なく、その欄干に腰掛けた。
懐かしさに誘われたのだ。
ニブルヘイムの私の部屋には、ちょうど村の中心を見下ろせる窓があった。
それは出窓になっていて、ぬいぐるみや写真、花瓶を置いたりするのに都合が良かった。
その窓辺に腰掛けるのが、小さい頃から好きだった。
クラウドが村を去ってからは、そこに座る時、私は必ず夜空を見上げるようになった。
無意識に、だけど儀式のように。
ちょうど同じ頃に、私は急に背が伸びて、出窓が手狭になり始めていた。片方の窓枠に背をもたれて反対側に脚を伸ばすと、伸ばしきれずに膝を少し曲げなくてはいけなくなった。
橋の手摺の上で、夜空を眺めてみる。周りに誰もいないのを確認して、脚を伸ばす。橋の端には柱があって、背を預けるのに按配がいい。
穏やかな風に身を任せるように目を閉じると、瞼の裏で星空の残像がちらついた。
こうしていると、本当にあの窓辺に腰掛けているような気がして、懐かしさに胸が疼く。
今はもうどこにもないあの窓辺。
「ティファか」
ふいに後ろから聞こえてきた声に、私は驚く。
首を向けると、さっき私が歩いてきたのと同じ方向に、クラウドがいた。
「なんだ、クラウド」
クラウドは石畳を進みながら、近付いてきた。
「なんで、そんな所に座ってるんだ?」
私の格好を見ながらクラウドが訊く。それから、伸ばした私の脚のあたりに視線を流すと、なんとなく気まずさを滲ませて目を逸らした。
気付いてしまって、私も気まずくなってしまった。脚なんていつも出してるのに、寝間着にしているショートパンツで脚を伸ばしていた姿が、すごく無防備な気がして、やけに恥ずかしくなった。だから、クラウドの問いに答えるタイミングも逸してしまった。
「眠れないのか?」
クラウドが質問を変える。気まずい流れを変えてくれて、ほっとした。
「なんだか寝苦しくて」
私は今度は答えた。
「俺も」
クラウドは、私の足先から少し距離を置いた場所の手摺に、背中と肘を預けて立った。
私の位置からは、ちょうど彼の横顔が見える格好になった。
「暑いよね」
「ああ」
短いやりとりをする。風に混ざって、時々、浜辺のほうから何人かがはしゃいでいるような声が聞こえた。
「ニブルヘイムはさ」
言いながら、クラウドがこちらに顔を向けた。
その僅かな動きと、その名前が彼の口から出たことに、私は少しだけ動揺した。
「海、遠かったよな」
クラウドはそう継いだ。
「そうだね」
私は受ける。
「潮の匂いって、何か慣れない」
クラウドはそう言いながら、海の方に向き直って目を少し細めた。
私は改めて、この町を包む潮の匂いに意識を向けた。
きっと、ここにずっと暮らしている人たちはこの香りに慣れ過ぎていて、潮の匂いという存在すら忘れているんだろう。
ニブルヘイムの匂いなんて、あの頃私は知らなかったから。離れて初めて、あの清冽な濃い空気というものに気が付いたから。
さっきまで見上げていた空を、もう一度眺めてみる。似ている、空。
不思議、と思う。
空気の匂いも、味も、温度も違うのに、この夜空だけで、この町は私の心を故郷に連れて行く。たったひとつの共通点が、たとえ他の全てが違っていても、ふたつのものを強く結びつけて離さなくする。
「でも懐かしい気がする」
クラウドが言った。小さな呟きだった。
だけどその小さな呟きが、私の心の水面に風を送って、柔らかく波を立てた。
「私も、同じこと考えてた」
クラウドがこちらを見る。
私は続ける。
「空だよ、きっと」
クラウドは、応えるように首を上げて、頭上の夜空をあらためた。
「そうだな」
そう肯定したクラウドの表情は穏やかだった。
光を散らせた星がひしめく空を仰ぐ彼の横顔に、私は見入った。
私とあなたはこうして同じ空を眺めて、同じ故郷の空を思い出す。それは私を安堵させる。
もうどこにもない私たちのあの村。でも、あなたと、私の中には、確かに存在しているのだ。
二人が共有する記憶。どちらが知り過ぎてもいない、知らな過ぎてもいない、少しのずれもなくぴったりと重なる記憶。
私はそれが欲しいのに、やっぱり、どうしても合わない。あなたは知り過ぎている。それとも、私が知らな過ぎてるの?
5年前、あなたはそこにいたと言った。でも、私の5年前の記憶の中には、あなたの姿を見つけられない。
あの時、村のゲートをくぐってやって来たのは、背の高い、黒い髪の……
「クラウド……」
ほとんど無意識に、私は彼の名前を唇に乗せた。
私は脚を揃えて、橋の内側に膝を向けて座り直した。その動きも、やっぱり無意識だった。
クラウドが私の方に視線を寄越す。
「あのね……」
私の唇は言葉を続けようと弧を描いたけれど、音を発することはなかった。
クラウドが私を見ている。暗闇の中で、不思議な色の瞳が瞬いていた。私はその目から目が離せない。
一瞬頭がぐらりと揺れた気がして、昼間見た陽炎みたいに、頭の中であの日の光景が浮かんで歪む。
そう、私がこの不思議な目を初めて見たのは、5年前、村の入口で、セフィロスと、もうひとり……
「ティファ?」
我に返る。
クラウドは少しだけ怪訝そうで、少しだけ心配そうな表情を浮かべて、私を見ていた。
そんな風に見られると、私はもう溢れ出しそうな質問が何もできない。
「なんでもない」
私は首を振って、
「何言おうとしたか、忘れちゃった」
そう誤摩化した。
「なんだよ」
クラウドはそう言って少し笑うと、肩を竦めて見せた。
その仕草はまた、私の記憶の中の鐘を鳴らす。
あの時も、同じようにした。
給水塔の上、助けに来てねってお願いした私に、今よりずっと小さかったあなたは同じように肩を竦めて、少し笑いながら了承した。
やっぱり、あなたは、あの少年と同じあなたなんだ。
そうでしょ?
「ごめん、思い出したら、言うね」
私はもう一度誤摩化した。
クラウドはそれ以上追及しなかった。
さっきの声の人たちだろうか、若い数人の声の群が、浜辺の方からだんだん町の方に近付いてくるのがわかった。
「戻ろうか」
彼が促す。
「うん」
応えてから、意識してきちんと脚を揃えて、私は欄干から腰を浮かせた。
私が降りたのを確認すると、クラウドがもと来た石造りの道を歩き出した。
私は、数歩遅れて彼に続いた。
少し前を行くクラウドの後髪が、暗がりの中で生温い風に揺れていた。
少年の頃の彼の、髪を結った後姿がフラッシュバックして、二つの影が目の前で交わる。
ニブルヘイムの乾いた冷たい空気が、一瞬肌をかすめた気がした。