Violets Are Red



触れている唇が空気を奪い、与えて、身体の先端まで命を保つための酸素を送る。彼女の名前をのせた風が、歯と下唇の隙間を抜けていく。噛んだのは彼女の唇か自分のものか、わからない。小さな空気の塊が肺から押し出され、気道を通り、唇の出口を抜けると、その名前の持ち主の唇に入っていく。

「何?」

離れて、彼女が問う。暗がりの中、遠い日に見た花びらの色を放つ彼女の目が視界に映る。微かに汗ばむ喉元の皮膚に頬を寄せれば、その下にある声帯から、震えの余韻が伝わった。

花の名前なんて数えるほどしか俺は知らない。ばら、百合、チューリップ。せいぜいその程度。だけどすみれがどんなものかは知っていた。母親の好きな花だったから。

ずっと昔、生ぬるいぼんやりとした春の午後、色んな草(名前は知らない)が生えた川辺に寝転んで、だるそうな春の空を特に理由もなく眺めていた。

特に理由もなく周りに視線を移せば、白とか黄色とかの花が、絵の具を散らしたように点々と咲いていた。その中に、いくつか紫の小さな花があった。それらがすみれだと、母親が好きだったから知っていた。

紫に紛れて、少し周囲から浮いた小さな色の塊が目に入った。上体を起こして目を細めると、花びらの形は自分の知っていたすみれだったけど、見慣れた紫のそれとは少し違っていた。ピンクと呼ぶには赤すぎて、赤と呼ぶには一歩足りない色だった。見れば、辺りにいくつか咲いていた。靄のかかった気怠い春の景色の中で、その色だけがはっきりと見えた。

起き上がってそのひとつに近づいた。できるだけそっと、茎に手を触れ力を込めると、一瞬の抵抗の後にぱきっと鳴って折れた。

その花を手に家に帰り、母親にそれを渡した。微笑んでいた記憶はあるけれど、無遠慮な窓からの午後の光が眩しすぎて、表情ははっきりとは見えなかった。母親はその花を小さな花瓶(ただのグラスだったかもしれない)に生けた。それから数日の間、食卓のテーブルの上にあった。

その花が実際すみれだったのか、母親が何と言ったかもう定かではないけれど、俺の記憶の中ではそれはいつもすみれだった。

彼女の名前を発する時、いつも反射のようにあの色が意識に浮かぶ。あるいは、声に応えて振り向くと、彼女はあの花の色が乗りうつった生身の目で俺を 見る。

あの灰がかった昏い日もそうだった。

どうやってあの場所、あの駅にたどり着いたのか、考えてもわからない。思考は散り散りで、身体は重くて仕方がないのに、同時に重力から解き放たれたように軽く、自分が生きている感覚すら曖昧だった。

雨が降っていたことだけは、唯一確かに理解していた。霧雨がひんやりと薄く肌を覆っているのがわかった。

「大丈夫ですか?」

彼女の声が聞こえた時、その信号が身体を巡り、瞼を開くよりも早く、俺の唇は本能で、彼女の名前を紡いだのだ。

それから目を開ければそこには、あの日のすみれの色が懸念と困惑を漂わせて、記憶に刻まれた彼女の顔の上に浮かんでいるのが見えた。

「何?」

彼女が繰り返す。唇がこめかみのあたりを撫でた。

「思い出してた」

それだけ答えて、首筋に顔を埋めた。息を吸えば、彼女の中から醸される香りが細胞のひとつひとつに届いて満たした。

彼女の指が髪を梳いた。抱いた腕に力を込めると、以前よりも短い彼女の髪の先端が手に触れた。あの日の彼女の、雨を含んだ髪が煙るように包んでいた表情が、脳裏にぼんやり浮かんで消えた。きっと俺の精神の泉の中から、また気まぐれに呼ばれて姿を見せるだろう。

彼女の柔らかく青白い肌を噛む。彼女は一瞬身体をかたくしたが、じきに緩めた。自分の残したその胸元の痕の赤みが、暗闇の中でも見えた。

顔を上げれば彼女はゆっくりと目を開いた。あの日の花びらが、結晶の中に永遠に囚われた姿がそこにあった。

故郷を、形のあるものとして求めることはもう要らなかった。俺にとってのニブルヘイムは、すぐそばに、いつも腕の中にあるからだ。ずっと、これからも。







ディシディアのティファのお顔の造形かわいいなぁ好み〜って考えててふと、目の色が紫〜青みがかった赤なのがなんかツボなんだわと思ったので、すみれ色にこじつけてこんな話ができました。

これは最初に英語で書いて、それから日本語にしました(一字一句の直訳ではないです)。英語版もしご興味あれば、こちらからどうぞー。

Tifaのfは英語式だと下唇噛むわけですが、そこからviolet (すみれ) のvと繋げることができたので。その点は日本語では無理だったので省いています。

ティファのファは櫻井クラウドはどう言ってるんだろう…

(2019/07/13)



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