Vanity Fair


3.



 レイチェル、なんてよくある名前。

 セリスは呪文のように胸の中で繰り返す。そうすれば、いつか自分の魔法にかかって、考えなくてすむようになるように。

 でもすぐに、別の感情が頭をもたげる。

 自分でさえこんななのだ、誰か別の人に属するその名前を街角で耳にする度、ロックの胸にはどんな鐘が鳴るんだろうか。

 レイチェルという人。彼女の思い出。ロックの心の海の中に、沈んだ錨みたいに決して動かず、朽ちずに残る。

 セリスは眠っている彼女の姿しか知らない。どんな目の色をしていたのか、どんな声で話したのか、どんな風に動いて、笑って、泣く人だったのか。わかっているのは、ロックがどれほど彼女を想っていたか。

 そしてセリスは考えてしまう。それと比べれば、彼にとって自分の重みはいかほどだろうと。海面に浮かぶブイのごとく軽いのではないか、と。 

 あの表情を見てしまったら、その思いに囚われずにいられない。何故かあの小さな女の子の髪の栗色が、焼き付いて離れない。手に持った花束をちらりと見る。さっきまではあんなに愛しく見えていたのに、鮮やかすぎる花びらの黄色が、何故か急に憎々しい。

 ───なんだって言うの。

 セリスはネガティブになる思考を払うようにかぶりを振る。

 そういう問題じゃない。ロックは過去にけじめをつけた。今はもう前に進んでいる。傍らにいる人間に自分を選んでくれた。それで十分なのだ。彼はもう言った。もう大丈夫だと。

 ロックが自分に向けてくれる愛情を疑っているわけでは決してない。自分を慈しむように見る目、触れる手。

 ただ、レイチェルという名前、存在。それはもう記号なのだ。

 彼にとっても、自分にとっても。

 きっとこの先、何らかの形でロックを失ってしまうことがあったとして、街角でその名前を聞く度、無条件に反応してしまう。そしてきっとその度、言いようのない思いに襲われ胸が締め付けられるのだ。レイチェルの名前に、彼が振り返るのと同じように。

 同じだ。同じことなのだ……

 だけど、どんなにわかろうとしても、わかれないのだった。



 先程から急に、セリスはなんだか元気がない、とロックは感じていた。市を後にして、二人が逗留している宿に戻る道すがら、どこかあさっての方向を見るような顔をしている。疲れたのかな、と思いそう訊いても、なんでもない、と彼女は答えるので、それ以上深く追及することはしなかった。

 そんな思いに耽っているセリスに、前から歩いてきた若い男の肩がぶつかって、セリスは少しよろめいた。ちらと振り返っただけでそのまま歩み去ろうとする男に、ロックが非難の口を開きかけたとき、セリスが先に口を割った。 

「ちょっと」

 いつもの彼女の涼やかな声に静かな怒気がこもっているのが、ロックにも伝わった。

「謝りもしないわけ?失礼な人ね」

 相手の男は面食らっている。

「人にぶつかっておいて謝りもしないのって訊いてるの」

 女性とはいえ腕には覚えありの彼女が、今にも力を行使するのではという勢いに、

「おいおいおいおい」

 とロックは慌てて割って入り、セリスの腕を引いた。ちらと相手の男を見ると、ロックは怒りよりもどこか憐れみを感じて、セリスを連れ立って足早にその場を離れた。

「冷やっとするなあ」

 しばし歩いたところで、ロックは歩調を緩める。

 ロックは足を止めて、憮然としたセリスを覗き込む。くすぶりが収まらない様子が、ロックにも見てとれた。

 ロックとしても別に、どこぞの国王ほどのフェミニストではないにせよ、女性にぶつかっておいてきちんと謝罪もせずに歩み去る男を弁護する筋合いはない。自分だって一言言ってやるつもりで口を開きかけた。だけどそのことであんな風に食ってかかるセリスが意外で、ともかくその場を収めるのが先決だと思ったのだ。慰めるつもりで手を伸ばして、軽くセリスの髪を撫でながら言う。

「お前さあ、女の子なんだからさ。そんなことで喧嘩売るなよ」

 女の子、という言葉がセリスの何かに引っかかる。男にそう扱われれば、喜ぶ女と反発する女がいる。幼い時分から軍人として育てられ、女性らしく扱われることのなかったセリスには、それは嬉しい場合が多かった。ましてそれが自分の好いた相手なら尚更だ。

 だけどこの時彼女には、ロックのその目が物語るものが、愛しいものを見る慈しみにも、小さくて弱いものを見る憐れみにも見えてしまったのだった。ジドールではよく見かける、毛並みの良い小型犬を見る飼い主の目だ。

 彼が守れず死なせてしまった、かつての恋人。か弱く守られるべき存在。セリスにとって彼女は、その象徴なのだった。

 ───そんなものになりたくないし、なれないのよ。

「女の子だから何なの」

 セリスは彼の手を払いながら言った。

「黙って一歩下がってろって言うの?」

 きょとんとしているロックを無視して続ける。

「私は物じゃないの」

「え?」

 ロックは、先程セリスに非礼をはたらいた──彼自信の言葉を借りれば、セリスが喧嘩を売った──男同様、面食らった顔をした。

「そうよね、あなたが言う女の子っていうのは、こんなことで怒ったり喧嘩売ったりしないのね。でも私はそういう女の子じゃないの」

 セリスは息を吐いて、吸う。喉元まで出かかっている次の言葉を、最後まで押し止めようとするように。

「私はレイチェルじゃないの」

 すぐに、言ってしまった、と思う。

「思ってないって」

 ロックの反応は早かった。

「思ってない。わかってる、でもわかれない」

 ほら、やっぱり今だって、とセリスは唇を噛む。レイチェルという名前に反応した彼の表情が、どうしても頭に焼き付いて離れない。そう思ってしまう自分が一番、嫌で嫌で堪らなかった。

「ちょっとさ、落ち着こう。な?」

「落ち着いたって同じよ」

 そう言った声がセリス自身にも驚くほど冷たく響いて、それはきっとロックにも伝わったのだと、セリスは理屈ではなく確信した。魔法はもう使えなくなっても、長い間身体に染み付いていた冷気の残滓が、蓋を押し開けて流れ出しているようだった。

「重ねられたって困るのよ」

 堰は切れてしまったからもう止めれなかった。だけど泣くことだけはしたくないとセリスは思った。何かあればすぐに泣く弱い女の子と思われたくなかったからだ。かわりに言葉を吐き出し続けた。

「あなたの中でレイチェルは一生特別なの。その場所は埋めれないのよ。埋める必要ないんだって頭でわかってても、気持ちがついていかないの。そんな物わかりのいい人間になれないの」

 ロックは黙って見ている。その戸惑っているような、傷ついているような表情に、セリスは途方もなく悲しくなった。

「私にはそういう人いないの。全部初めてなの、ロックが」

 ロックがレイチェルを愛したごとく強く想った相手が、ロック以前のセリスにはいなかった。彼のことを誰よりもわかりたいと思うのに、自分の過去においてのそういう存在の不在が、彼と同じ土俵に立てないと思わせた。

 ロックが知っている痛みは、自分には一生わからない。

「それがどうしても辛いのよ」

 ついに流れることはなかったけれど、青い目許に光るものをロックは確かに見たのだった。







「最近、あの人見たのよ」

 自分の爪に色を施す馴染みの女主人の声に、マリアは読んでいた雑誌から顔を上げずに、ふーん、とつまらなそうに言った。

 上流階級の女たちで賑わうその店は、ジドールの街の賑わった通りの一角に立つ、マリアの行きつけのサロンだ。数年前までは、彼女も少し格下の、安価な場所に通っていたが、今ではここに通う余裕も存分にある。

 あの人。それだけで名前を聞かなくてもなんとなくわかる。名前を言わなくてもその人のことを考えるだけで、まるで悪いまじないにでもかかることを恐れるような、どこかこわごわとした言い方。

 あの人、というのは、かつて人気を博したオペラ座のプリマドンナのことだ。かつてというのは、マリアの母親がまだオペラで夢を追っていた時代のこと。

 無論彼女の舞台をマリアは見たことはないが、その人の評判は、古い雑誌や新聞の記事で読んで知っていた。声、歌に込める情感、そして美貌。どれをとってもオペラ座の、ジドールの宝石だと謳われたほどの時代の寵児だったという。

 でもその華々しい過去は今は見る影もない。人気も絶頂の最中、愛に破れ、落胆し、酒に溺れ、歌も容姿も花を手折るごとく自ら潰してしまったのだという。

「綺麗な人だったのにね」

 女主人は、年相応の皺は刻まれているが手入れの行き届いた品のある手でマリアに施術を続けながら呟く。おおよそ彼女と同じ年代の人間なので、全盛期の彼女の姿を知っているのだろう。その姿を思い浮かべているような言い方だった。

 その恋敵というのが、マリアの母親だというのだ。父や母から聞いたわけではなく、故郷を離れてジドールに出てきてからのことだ。マリアの母親はオペラでこそ才能は及ばなかったが、愛では勝者だったというわけだ。

 マリアがオペラで成功してからも、折に触れて彼女の知らないその過去の愛憎劇は耳に入ってくる。当事者の娘とはいえ自分には関係ないのでマリアは無視しているが、いい迷惑だと思っている。

 そして学んだひとつの訓示。

 嫉妬に狂った女の末路は、破滅。

 白くて長い指の先端に咲いた花びらのような赤を軽く揺らす。

 悪い例が近くにいて良かったわ。マリアは心の中だけで呟く。憐れみとひとさじの畏怖を込めて。

 …可哀想に。そんな恋をしなければ、美しいプリマドンナとしてだけ歴史に残れたのに。



 女主人に見送られ街の通りに出れば、季節は春、街には花が溢れ、陽はあかるく穏やかだ。

 だけどこの生温い陽気が、何かマリアの気分にそぐわない。マリアは大きく形の良い目を空に向けてしかめると、首の後に手を当て少し傾げた。

 そして、あら、という形に唇を動かす。

 通りの向こうに掛かる橋の上を早足で歩いていく女がいる。顔はよく見えないが、マリアには彼女が誰だかよくわかる。長身で痩身、長い金髪の女。

 黄色の花びらが一枚散って、石造りの橋から舞い落ちるのが見えた。









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当初の予定より全然長くなりそうです…。7-8話くらいかな。目標は夏のうちに終わらせること!(20140803)


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