黒いドレスの背中に金髪を揺らした人がバルコニーにふらりと出るのが視界の隅に入り、ロックは糸で引かれるように目線を向ける。
黒を着るのは珍しい。
黒は美貌を引き立てるとは昔からよく言うが、いや確かにその通り、とロックはひとり合点する。普段からどの角度からみてもセリスは美しいのだが、今夜はひと味ちがってまた格別だ。
借りた衣装だが、これだけ誂えたように似合う人に着られれば、貸衣装屋もどうぞそのまま貰ってくださいと懇願したくなるのではないか。それほどよく似合っている。
その後姿から目を引き剥がして見渡せば、ホールを埋める着飾った女と男たち。
趣味が好いとは言い難い羽根飾りやら極彩色の植物みたいな色のドレス。さながらサーカスなのだがここにいるのはほとんど例外なくジドールの社交界の連中だ。教養はあるはずなのだが、自分たちの滑稽さに気づいてないのはまさにピエロだ、とロックは心中毒づいた。
けれどもロックは決して、彼らの生活に対して劣等感を抱いているとかではない。虚勢ではなく、本当にそういうものではないのだ。ただ、たとえて言うなら、自分の足で見に行ったことはないのに、壮大な景色を値の張る絵画の中で見ただけで知った気になっている連中を、どこか憐れんでいるという感覚に近い。
この場に招かれている者でその集団に属さないのは、自分と彼女くらいか、とロックは思う。
「いやセリスもまったく好き者だな」
それともう一人。
半ばうんざりといった表情を隠さず、ロックはその声の主に顔を向ける。
銀色の長髪に縁取られた顔は端正だが、傷があちこちに刻まれている男が立ってグラスを傾けている。
そもそも、ここジドールでも名折れの富豪の一人が主催するこのパーティーにセリスやロックが招かれたのは、この男のツテなのだ。
詳しいことは知らないが、セッツァーとその人は昔のよしみがあるらしい。ジドールの貴族の例に違わずオペラを嗜むその人に、セッツァーがかつての昔話を語ったところ、ぜひともセリスに会いたいというのである。となればロックが彼女一人を行かせるわけもなく、慣れない正装でやってきたという按配だ。
当然ながらセリスは一輪の薔薇のような美しさで男たちの視線、そして女たちの嫉妬の視線を集めていたが、ロックが用心棒のごとく片時も彼女の側を離れないので、話しかけようとする男たちの努力も無碍にあしらわれていたのである。
手洗いに行くというセリスと一旦別れ、手持ち無沙汰で壁の花となっていたところに、セッツァーがやってきたというわけだ。
「文句ならあいつに言ってくれ」
負け惜しみ言っとけとばかりにセッツァーに中指を立てて、ロックはその場を離れバルコニーに向かう。
「酔った?」
そう問いかけながら背中にそっと手を添えると、手摺に凭れた彼女が見上げる。
肩から鎖骨まで開いたドレスは、白い肌を誇るように晒した。その肌が赤みを帯びているのがロックの目に入り、普段は塗らない赤い口紅も手伝ってさながら女優のようだ。大きくゆるからにカールさせて横に分けた髪が顔の半分を覆って、物憂げな表情をつくるのに一役買っている。そのさまが美しいがいわくつきの未亡人か何かを彷彿とさせもする。
「顔赤いぞ」
カーテンを開けて窓を見るようにその髪を軽くよけてやれば、白目の部分もうっすら赤くなっていて、まるで泣いた後を思わせた。
「さてはタキシードの俺に惚れ直したな」
と、照れを誤摩化すように芝居がかったふうにタイを直しながら、彼は言う。
ばっかみたい、とかいつもなら返されるのがオチなのだが、ところがセリスはふっと息を漏らして微笑むと、手摺に置いたグラスに手を伸ばす。
「あ」
グラスの脚に手が触れて、液体ごと中庭に落ちる。
ロックは覗き込んで見下ろす。草の上に倒れたグラスがどこか物悲しいのには違いないが、幸い下には誰もいないのを確かめると、またセリスに視線を戻す。
なんだか調子が狂う、とロックは頭をぽりぽりと掻く。こんなにぼんやりしたセリスは珍しい。
「具合悪いのか?別に酒弱くなかったよな」
肩を抱いて覗き込めば、セリスは倒れ込むようにそのまましなだれかかってくる。熱い呼気にロックの心臓が跳ねる。
好き合う者同士がすることはしてるわけだが、今までみたことのない彼女の様子に面食らい、初めて触れた時のように体中の血が騒いだ。
セリスの体に回した腕を直しながら、肩越しに室内を見遣る。誰もこちらを見ていないことを確認して、空いているほうの手でセリスの顎を持ち上げる。赤く塗られた唇を自分のもので覆うと、やや不機嫌そうに結んでいた口許が少しずつ開く。
支えているほうの腕に、力が抜けたセリスの重みがかかる。シャツの胸元を掴んでくる手がいじらしい。
いや、さっき中を確認したのは撤回。ロックは思う。
いっそ見せてやりたいものだ。むしろ大いに見せつけたい。悪いけど俺のもんなんだと。
屋敷中に溢れる人の海の中でひと際大きな人の固まりがあることに、セッツァーは無論気付いていたが、さしてその中身に興味を引かれることなく、煙草を吸いに外に出た。
銀色の髪が外の闇の中で煙のように浮かぶのを、その固まりの中心にいた若い女が見つけて、緩やかにカーブする螺旋階段を降りてくるのに、彼は気付いてはいなかった。
屋敷はジドールの街を臨む高台に鎮座している。建物を出て少し歩くと、よくととのえられた生け垣を隔てて、眼下に暗闇に浮かぶ街の灯りが広がる。
セッツァーはこの景色が気に入ってる。飛空挺で夜飛んでいても、この街の明るさは格別だ。そしてその光の量は、どんどん増しているように彼には思える。
行きつくところまで昇りつめて、潔く散ればいい、とセッツァーはかつての戦友の姿にこの街を重ねて思う。
後ろから近付いてきた人の気配が横に立つと、彼は横目だけでその人物を窺った。品の良い香水の香りが煙の間の縫って漂う。
「あんたも一服か?」
セッツァーが訊くと、
「吸わないの」
と女は首を振る。
目を向けると、赤いドレスの背の高い若い女だ。金髪を夜会巻きにまとめて整った骨格がよく見てとれる。シンプルなドレスは色は派手だが、アクセサリーをほとんどしていない。それがここにいる装飾過多な群衆たちとの彼女を分けていた。自分の魅力を自惚れでなく理解している女にしか出来ない格好だ。
「ね、あなたセッツァーさんでしょ」
セッツァーは煙をひとつ吐いて、女を静かに見る。
「俺もあんたが誰か知ってるよ」
理由はひとつだ。彼女がジドールでは名の知れた人物であること、もひとつにはそうだが、それよりも服装や髪型は違えど、顔がセリスに瓜二つだからだ。
「ダンスの相手でも探しにきたのかな」
「どうかしら」
お互い声を聞くのは初めてだった。セツは過去に彼女──マリアのオペラを観ていたので歌う声は知っていたが、話す声を聞くのは初めてだった。
「相手に困ってるって様子じゃなさそうだな」
「お陰様で」
彼女は後れ毛を気にしながら言う。
「私ね、いつかあなたに会ったら、どうしても言っておきたいと思ってたことがあって」
「聞こうか」
「あなたに攫われる役、できなくてくやしかった」
彼女のその言葉に、セッツァーは意外そうに目をわずかに丸くする。
「素人に役を奪われたのが?」
「そうでもない。ただ、せっかく面白そうなのにって」
セッツァーは初めて間近で見るその女優を検分する。あからさまでなく、自然な目の動きでさりげなく。カードで鍛えた巧みな観察眼は、こういう時にも役に立つ。
骨格、背丈、顔立ち、そして声も、なるほど確かに二人はよく似ている、とセッツァーは思う。違うのはどこかというと、それは目だと、彼は彼女が近付いてきたときに既に気付いていた。セリスの目は青いが、目の前の彼女のそれは緑で、少し三白眼のきらいがある。右耳近くの頬に、黒子があるのを見つける。肌の具合などから、年かさもおそらく似たようなところだろうとセッツァーは算段する。
「私はやってもいいって言ったのに、団長が絶対だめだって」
そりゃそうだろう、とセッツァーは内心で苦笑する。
「面白いなあんた」
素直にそう言えば、マリアは微笑む。
「じゃあ改めて、初めましてだな」
「二度目よ」
きょとんとするセッツァーに、マリアは美しい顔立ちをにっこりとさせて微笑う。
「紫の目、見たの初めてだったから、覚えてたの」
目を褒められることは彼には少なくない。女たちは特に宝石を愛でるように、この神秘的な色に懸想するらしい。
「いつだった?」
「もう五年くらい前。ジドールのバーでよ。話もしてないから、正確には会ってるとは言わないかも」
セッツァーは記憶をかき混ぜてみたが、それらしい画は浮かばなかった。
マリアというオペラ歌手の存在を認識したのは、彼女が主演を踏むようになり、名声が顕著になってからだ。実際に観劇をしたのはその後だ。遊びのつもりで例の誘拐予告をしたのも、その後だ。
「覚えてないのも無理ないわ。ちょっと目が合っただけだし。人がいっぱいいたし」
マリアは近くを通った給士に飲みかけの泡のグラスを返す。
「秋の感謝祭の夜だったのよ。みんな浮かれてた」
「ああ」
ようやく合点がいったらしく、セッツァーは軽く頷く。
「目抜き通りの端にあったバーだな」
その夜を過ごした女の、肩甲骨にあった黒子を思い出していた。