傷跡
「そんなに深くないな」
私の腕を検証しながら、ロックが言う。
ロックと二人で探索に入った森で遭遇したモンスターに、私は手傷を負わされてしまった。左腕の肘より少し上、五センチくらいに走る一筋の爪の跡。裂けた皮膚から微かに滲む血。
ロックは私を適当な場所に座らせ、傍らに跪くと、腰につけているバッグからアルコールの入った小瓶と白い布切れを取り出し、素早く傷の手当にかかる。
「あいつ毒はないから、心配ない」
そう言ってロックはアルコールを染み込ませた布を私の傷にあてがう。きついアルコールの匂いと、傷に滲みる鋭い痛みに私は思わず眉を顰める。
「痛い?」
「平気」
私は首を振る。経験上たいした傷でないことはわかっているけれど、真新しい傷口にアルコールはさすがに滲みる。
ロックは子供を宥めるように少し笑うと、
「けど、跡が残るかもな」
と言った。
彼の腕や膝や肩には、傷の跡がたくさんあった。見た目にもすぐにわかるものや、指でなぞると僅かな皮膚の隆起に気付いてわかる小さなものまで、彼の歴史とも言える傷跡。
私の体に傷跡はない。今まで全て、魔法で治してきたからだ。魔法で治療した怪我は、跡が残らない。文字通り、魔法のように跡形もなく消える。だから彼の傷跡たちは、私たちが魔法の力を享受した僅かな年月であるあの旅の、もっと前に出来たものなのだろう。私の知らない彼の歴史。
私の腕を吟味する彼の表情を見下ろす。頭上の木々の枝葉の隙間を縫って届く光が、彼の肌の上にまだらに影を作っている。真剣に目を伏せた表情は、童顔の彼をやけに大人っぽく見せる。
「よし、出来た」
仕上げに包帯を巻き終えて、ロックが急に顔を上げる。凝視していた私は少し驚く。ロックは目敏くそれに気付いたのか、子供っぽい表情を見せて微笑む。それから唇を寄せてくる。唇から鼻腔から、彼の気配が一気に流れ込んできて、私はむせそうになる。
ロックは顔を離すと、私の膝をぽんと叩きながら、
「足じゃなくて、良かったよな」
と言って立ち上がる。
「でも心配すんな。もし足でも、俺がおぶってってやるからな」
道具をバッグにしまいながら、ロックが私を見下ろして言う。
おどけた調子でそう言ったのが可笑しくて、
「私は嫌よ」
苦笑しながら、私も立ち上がる。
ロックは、拗ねたように口を歪めてみせる。
大人で子供な彼。
「水のそばまで行ったら、今日は早めに野営しよう」
さっさと気を取り直していつもの表情に戻ったロックが言う。
「うん、ごめんね」
予定ではもっと先まで進めていたかもしれないのに、という考えが、私にそう言わせる。
「いいんだって。急ぐ旅じゃないんだから」
目の上に手をかざして、木立の向こうの開けた道を見通しながらロックは続ける。
「水辺によく生えてる植物でさ、根がいい薬になるやつがあるんだ。この森の植物の感じって、前の地形のナルシェの辺りのやつっぽいんだよな。その辺りの水辺には大抵生えてたから、きっとあると思うんだよな」
ロックは博識だ。世界に関する諸々のことを彼が私に教えてくれるにつけ、剣や魔法、兵法などの英才教育を施されてきたとはいえ、私は本当に狭い世界で生きてきたということを、これまでも何度も実感した。だけどそれは卑屈な感情ではなく純粋な喜びで、彼から与えられる知識の全てが、どんなに些細なことでも私には新鮮に輝いているように思える。
ふと、少し先を歩いていたロックが木立の間の日溜まりに足を踏み入れて、彼の姿が一瞬白くとぶ。
私ははっと息を呑む。
「どした?」
ロックが振り返る。
「なんでもない」
私は首を振って、笑顔をつくる。
彼はこちらに歩み寄って、左の腕を伸ばしてくる。私は怪我をしていない右の腕を伸ばして、その手を取る。そのまま私たちは歩き始める。
あの旅のほとんどの間、私は彼の後ろ姿を追っていた。さっき白くとんだ彼の影が、なぜだかその日々のことを急に思い出させた。
後ろ姿を追って行き着く先は、暗い洞窟の終わりの光差す出口なのか、迷いの森の入り口なのか、わからなかったけれど、それでも私はいつでも青いバンダナの揺れる先に向かっていた。
繋いだ手を、ロックがふいに強く握った。その動きに合わせるように、胸がきゅっとしめつけられて、傷の痛みを一瞬忘れる。
これはまるで、彼の魔法だ。
このまだ新しい湿った傷口が、いつか乾いて跡になる様子を、私はまぶたの奥で想像する。
その傷跡に触れる度、木立の影を落とした彼の顔を、強いアルコールの匂いを、触れた唇の感触を、私はきっと思い出す。