痛み分け




「もういい」

 自分が発したその言葉は、彼女の声も重ねってユニゾンで響いた。

 平行線の議論に、二人同時に匙を投げた。今はこれ以上話しても無駄だ。

 キッチンの横の通路から裏口の扉をくぐり、愛機を通り過ぎてガレージのシャッターを開く。

 瓦礫から生まれたこの街は、何年経っても埃っぽさが消えない。それでも夜が連れてくる冷たさは、この街にも平等に一定の静けさをもたらす。直に触れる外気が火照った肌を通して、心を覚ましていくのを感じる。

 これだけでも十分と思いたいが、血が上った頭を冷やしたくて、やはり一走りしてこよう、と決める。ガレージの棚からゴーグルと鍵を取り、振り返って一瞬身が強張る。暗闇に光る二つの目があったからだ。

 猫だった。

 光源は開いたシャッターの入口でこちらを窺うようにその場に留まっていたが、やがてゆっくりと中に向かって歩き出した。

 シャッターの前ででも寝ていたのだろうか。それとも間違って侵入して、ずっとこの中に閉じ込められていたのだろうか。そいつは俺の事など意に介さずといった様子で、バイクの足元に近付くと鼻を寄せて匂いを嗅ぎ、そのままシートに飛び乗った。そこで何度かぐるぐると回ったり、前足で感触を確かめたりした後、いかにも猫らしく身体を丸めて寝そべってしまった。

 その呑気で傍若無人な姿に、なんだか急に脱力感に襲われ、そのまま地面に腰を下ろす。

 ティファは追っては来ない。

 開けたガレージの扉から群青色の空が見える。裏通りの人工の光が漏れて忍び込んでいる。

 再びシートに目をやると、それは頭は起こしたまま気怠そうに何度か目を開けたり閉じたりしている。

 俺を慰めに来たのか、諭しにでも来たのか。

 思った途端苦笑する。馬鹿げた考えだ。

 猫には猫の都合があっての事なんだろうが、人間はやたらとそういう類のものを必然だとか運命だとかお導きだとか呼びたがる。

 猫は気まぐれでわがままだとか言うが、本当にそうなのは人間のほうなのだ。

 猫は眠りたいところで眠るし、晴れた夜には月が出るし、朝が来れば日は昇る。

 そう考えると何故か、自分の中にくすぶっていたものがすごく些末なことのように思えてくる。

 そもそもたいした諍いではない。

 どちらが何をしたとか言ったとかいうより、ちょっとした主張のぶつかり、要するに意地の張り合いみたいなものだ。少なくとも俺はそう思っている。

 手に握ったままの鍵を軽く鳴らす。

 もう、行くこともないか。

 立ち上がると、元あった場所に鍵とゴーグルを戻す。

 座っていただけなのに、バイクを走らせた後のようなすがすがしい気分がしていた。

 相変わらず驚く様子も見せずにじっと鎮座しているその猫に歩み寄る。

 人差し指の背で首の下を撫でてやると、大人しく首を伸ばしてくる。首輪はないが、野良にしては毛並みがいい。飼い猫だろうか。

 しばらく気持ち良さそうに喉を鳴らしていたが、にわかに身を起こすとうらめしそうに一瞥をくれ、バイクを降りると音もなく着地した。それから一度弓なりに伸びをして、やっぱり音もなくガレージの外へ消えていった。

 ひとり残された俺は、その自由奔放さが何だかおかしくて、少し笑った。



 逆再生するように店の中に戻ると、さっきいた場所にティファはいなかった。かわりに二階からシャワーの音が聞こえる。

 苛々とした気持ちを洗い流しているのだろうか。さてどうやって謝ろうか。そんなことを考えながら階段を上りバスルームの前に辿り着くのとほぼ同時に、その扉が向こうから開いた。

 お互い一瞬硬直する。

 ティファの服はさっきと同じで、髪も濡れていない。

「……入ってたんじゃないのか」

 訊く自分の声は図らずも、探るような、自信のなさを帯びて響いた。

 ティファはドアノブから手を離しながら、少し目を伏せて答える。

「……磨いてたの」

 そう言う彼女の声には、平常時の柔らかさはなく、かといって怒っているという風でもなかった。俺の前をすり抜けると、そのまま寝室の扉を開けて入っていった。

 扉は閉めない。俺はほっとする。

 追って寝室の入口をくぐると、俺はその扉を後手に閉めた。

 カーテンを閉じていない屋内にはまだ眠らない街の灯りが差し込んで、暗がりでもティファの姿の輪郭が見てとれた。その後姿に腕を回して、肩に頭を預ける。顔を見るのはまだ少し照れくさかった。ティファはそっと俺の腕に手を添えると、猫の尻尾が肌をくすぐるみたいに軽く撫でた。

 お互い何も言わずにそうしていた。空虚な謝罪の言葉は必要なかった。

 戻ってきたのは俺。扉を開けたのは彼女。それで和解は済んだのだと思う。

 ティファは身じろぎすると、俺の方に身体を向けた。

 窓からの微かな明かりで、鼻や頬の高い部分が淡く光を受けている。

 目は笑っていない。だけど口許は微笑に結ばれている。

「バイクで行ったんじゃないの?」

 聞き慣れたその声での問いに、俺は首を振る。

「行かなかった」

 ティファの目は、慈悲深い女神のような、いたずらな妖精のような、不思議な光を帯びている。俺はどんな風に映っているのだろうか。出来の悪い子供か、身勝手な男か。

 その思考を遮るために俺は彼女に唇を重ねる。それを塞げば目も閉じられるのだから。さっきまで言い争っていた唇。

 目を開くと、さっきと同じ目がそこで揺れている。ティファは指を伸ばして、俺の頬を軽く撫でてくる。気まぐれな俺に呆れているのだろうか。だけど彼女も十分気まぐれだ。

 もう一度唇を塞いでから、抱き締めてその髪に顔を埋める。慣れ親しんだ香りは心を鎮めもするし、ざわつかせもするから不思議だ。

 たまには喧嘩もするんだろう、これからも。

 だけど多分その度、猫が居心地の良い寝場所を知っているように、俺は何度でも彼女の元に戻るのだ。











ティファはいらいらすると床とかシンクとかの磨き掃除とか始めそう。(2013/01/27)


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