Read my lips
彼が帰ってきて二人きりになった時、どうするんだろうって思ってた。
何を話そうか。彼はなんて言うのか。そもそも二人になれるのはいつだろうとも。もしかしたら子供たちと一緒に寝るのかな、と思ってたし。
だから子供たちを寝かしつけに二階へあがってしばらくして、降りてくる足音が聞こえた時、少しだけ体が強張った。
「ちゃんと眠った?」
最後のグラスの泡を洗い流しながら、わざと何気ない調子で訊く。
「うん」
短い返事が返ってくる。
蛇口を閉めて、タオルで手を拭く。
ここ数日、蛇口が緩いみたいで、きちんと締めても等間隔で数秒おきにぽたりぽたりと水が垂れる。
いい加減に直さないと、頭の隅でそう考えていると、彼が一歩近付いて私の腕を引いた。
彼の肩口に顔をもたれる。
二人になったら私は泣くのかな、と思ってたけど、不思議と気持ちは凪いでいるみたいだった。こうしてることが夢みたいにも思えるし、つい昨日まで彼がいなかったことの方が夢だったんじゃないかって思いもする。
そんななんとなくふわふわとした気持ちでいると、彼が体に回している腕を少しきつくした。
がむしゃらじゃないけれど力を込めて抱き締めてくる腕は強いのに、私の肩に顔を埋めている彼を、すごく小さくも感じる。
ごめんも言わない彼。
でも、言わないってことは思ってないってこととは違うから。
そう思って少し可笑しくなる。
誰かが言ったみたいに、確かにめんどくさい。そうかと思えば、すごくシンプルで単純で、こんなわかりやすい人いないって思う時もある。
いつもそうならいいのに。
弱い自分を見せたくないと思うのは、彼に限ったことじゃない。
隠さないでいいの。
そう言ったってきっと無駄なんだろう。そういう人なんだから。
だから、私は待とう。
私自身が、彼から離れられない限りは。
馬鹿だって言う人もいるかもしれない。ただの惚れた弱みだって。だけど仕方ない。
誰かを愛するってことは、必要とすることは、甘くて芳しいことばかりじゃないんだって、身をもって知った。
わかった上で受け入れよう。
私の肩で呼吸をする彼。
非難の言葉も、寂しかった気持ちも、好きとか嫌いとか心が発するままの感情も、言いたいことはたくさんあるけど、ぶつけるには先に何か言ってくれないと。
彼は黙ったまま。規則的に響いてくる鼓動に心が安らぐ。
じゃあ私も黙って許そう。
抱き締めてくる腕から少し逃れて、顔を上げる。
目許にかかる金髪を、指を伸ばして軽く払ってみる。少し伸びたみたい。
その手をノースリーブの肩に滑らせて、肌を軽くつねってみた。
これで。
突然のことに彼は少し顔を歪める。私は可笑しくなる。
夢じゃないってことね。
不思議そうな表情で見てくる彼に、私は口を開く。
「蛇口が、少し前からちゃんと閉まらなくて」
彼は視線を横にずらして、シンクを見遣る。
ぽたりと水音が弾ける。
その横顔に言う。
「明日直してくれる?」
その顔が少し笑った。
「うん」
頷きながら、顔を寄せてくるのがわかると、わたしはほとんど無意識に目を閉じた。彼の唇が自分のものに重なると同時に、胸の奥の方が震えた。
寂しかった。辛かった。
やっぱり怒ってもいる。
でも帰ってきてくれて嬉しい。
伝えきれないくらい。
こうしてることが。
全部、言わなくてもわかって。
聞きたい言葉が聞けなくてやきもきしたり、言いたいことが言えなくて苛立ったり、きっとそんなことばかりなんだろう。時々後悔することも言ってしまうんだろう。
それでいい。それでもお互いが求める限り、そうやってやっていけばいい。
他愛のない会話をして、同じものを食べて、喧嘩して仲直りして、同じ部屋で眠って、そんな何気ないことを続けていくっていう簡単なようで難しいことを、私はこの人としていきたいんだから。
「いた、」
急に、彼が私の下唇を軽く噛んだ。
目を丸くしている私を、彼はいたずらっぽい、でもこの上なく優しい目で見ると、また腕にきつく抱いた。痛いくらい強く。
彼のいなかった、永遠みたいに長く感じた時間が、こうしてるだけで幻だったみたいに溶けて流れていく。またこうやって触れられることが、嬉しくて苦しい。
唇に手を触れてみる。
この痛みは本物だ。
そう思ったら、やっぱり泣きたかった。