言葉




 シャワーを済ませ、濡れた髪も乾かし終えてから寝室に戻ると、ティファはいなかった。

 下だろうか、とも思ったが、何か予感のようなものがして二階のベランダの方を覗くと、やはりティファはそこにいた。こちらに背を向けて、手摺に凭れているようだ。俺は歩み寄ってベランダの扉を開く。

「ティファ、入った方がいい」

 声を掛けると、ティファが振り向く。

「平気だよ」

 応える表情は穏やかだ。

「いいから。風邪ひいたら困るだろ」

 手を取り促すと、彼女は大人しくこちらに来る。片手には微かに湯気の立つマグカップを持っている。俺は空いている方の手でベランダの扉を閉めると、繋いだ手を引いて寝室に向かう。

 寝室の扉を閉め、彼女の手からマグカップを取ると、とりあえず入り口のそばのチェストの上に置く。まだ飲みかけのそれからはミントの香りがした。

「具合、どうだ?」

「朝よりずっといいよ」

 そうか、と俺は吐息のように言う。

 揃ってベッドに腰掛けながら、しばしの沈黙が流れる。

 このまま沈黙をやり過ごすことも、下手に話題を探すことも、なんだか億劫だった。

 俺は覚悟を決めてスウェットのポケットに手を差し込み、忍ばせていた小さな箱を取り出した。大きく息を吸って吐きながら、その箱をティファの膝の上に置く。

 ティファの横顔を盗み見ると、大きな目を何度か瞬かせて、膝の上のそれを見ている。それからゆっくり俺を見上げてくる。驚いているような、戸惑っているような、微笑んでいるような、不思議な表情だった。

 だけどそこに拒絶の色がないことを確信して、俺は自らその箱を開け中身を取り出すと、彼女の左手を取り、薬指に嵌めた。その一連の動きは、滞りのない流れのように一瞬だったが、同時に永遠のようにも思われて、俺の脳に焼き付いた。既に俺の手を離れた指輪の感触が、まだ余韻のように指先に残っている。

 ティファは左手を顔の高さまで上げ、黙って見つめている。俺はその横顔をまた盗み見る。その目許が、口許が、少しずつ微笑を描いた。ティファはさっきと同じように、ゆっくりと俺を見上げた。

「本気?」

 ティファは右手を左手に添えて、指輪を俺の方に向けるようにしながら言った。口許は笑っているが、目は潤んでいるようだった。

 悪戯っぽいその言葉に悪戯っぽく答えたかったが、そこまでの余裕もなく、俺は無言で頷いた。

「嬉しい」

 一言だけ呟くと、ティファは薬指に収まるそれを、いとおしそうにひと撫でした。

 俺は改めてそれを見つめる。細いシルバーの輪に丸いダイヤが一粒のシンプルな指輪だったが、そのシンプルさが彼女にぴったりだと一目見て思ったのだ。彼女の指に収まるその姿に、やはり間違っていなかった、と思う。過多な装飾のいらない凛とした美しさは、まるで彼女そのものだ。

 俺はその手を取って言う。

「ティファ」

 身体がもう少しティファの方に向くように座り直し、さっきより深く息を吸う。

 頭の中で何度も繰り返し練習してきたつもりだが、短い音節のその言葉を絞り出すのは勇気がいる。

 もう一度息を吸おうとしたところで、ティファが人差し指を俺の唇に添えた。

「何も言わなくていいよ」

 微かに朱が差した彼女の頬に、涙が一筋流れた。俺は彼女を抱き締めた。

 水の中に入った時のような痛みが鼻の奥を走る。嬉しいのか、感動しているのか、情けないのか、わからないが、俺は泣きたかった。その衝動を抑えるように、彼女の肩に顔を埋める。

 やっぱり俺は、彼女に甘えてしまう。

 何故なのだろう。彼女の肩には、もう重すぎるだけの過去や罪や後悔がのしかかっているのに、この優しさは何なのだろう。どうして俺までが、この肩で涙を隠すのだろう。彼女を守ってやりたいのに、どうしていつも俺が守られているのだろう。

 流れ出そうだった涙をどうにか押し戻すと、俺は顔を上げた。

「もうひとつあるんだ」

 反対側のポケットに忍ばせていた、小さな布の袋を差し出す。淡いベージュのその袋を受け取ると、開けていい?と目で訊く彼女に俺は頷いて答える。

 結んであった紐を解いて取り出すと、それを掌に収めながら、彼女は尋ねるように俺を見る。ネックレスに通した大人の小指ほどの小さな指輪。

「ベビーリングって言うらしいんだ」

 ぽってりとしたシルバーのバンドに、ティファに贈ったものと同じ、小さなダイヤが一粒埋め込まれている。

 「子供の誕生石を嵌め込んだりするのもあるらしいんだけど…でも、まだわからないだろ。その、月をまたいで予定日からずれたりすることもあるって、店の人が…」

 言葉尻を濁しながら、何か照れくさくなって意味もなく頭を掻いてみる。

 ふいに、彼女は声を出して笑った。

「クラウド、結構せっかちだね」

 そのままくすくす笑い続ける。産まれてからでもいいじゃないか、という意味だろうか。意図するところを掴みかねていたが、笑う彼女を見ていると、なんだかそれもどうでもよくなり、俺もつられて笑った。

「ね、これ、私がしててもいい?」

 彼女は俺の顔を見上げると、そのまま続ける。

「元気に産まれてくるように、お守り」

 言いながら微笑む彼女の顔は、既に母のようでもあり、あの頃と少しも変わらない少女のようでもあった。その頃の姿を思い浮かべると、いつでも俺はあの幼い自分に戻る。いつだって。

 俺は彼女の頬に手を添えて口づけた。唇に残るミントの香りに、心が落ち着く。

「もう少しして、体調も落ち着いたら、ドレス選びに行こうな」

 右手で彼女の頬を撫でると、彼女はその手に自分の手を添えて、静かに言う。

「いいんだよ。クラウド」

 彼女は続ける。

「特別なことしなくても、いいの。今まで、いろんなことあったでしょ。だから、特別なことしなくても、みんなで穏やかに暮らしていければ、それが一番幸せって思うの」

 丁寧に発せられたその言葉からは、彼女が遠慮ではなく本心を語っているのだとわかった。多くを求めないのは彼女の美徳だ。だけど。

「でもマリンと、ユフィもきっと、見たいって言うと思う」

 二人だけじゃなく、デンゼルも、バレットやシドたちも、星に溶け込んだ彼らも、そこにいるだろう俺たちの両親も。

 俺がそう言ったのを受けて少し逡巡するような顔をしたあと、笑顔で彼女は言う。

「お腹の大きいドレスになっちゃう」

 それでも、ティファは誰より綺麗だろう。彼女が子供の頃に夢見ただろうものとは、少し違うのかもしれないけれど。

「嫌か?」

 訊くと、彼女は、全然、と首を横に振る。

「幸せが二倍だもん」

 この夜何度目かわからない彼女の笑顔は、嘘偽りなく幸せそうに、満ち足りたように見える。

「二人には、明日話そうな」

「うん」

 あの二人のことだ、きっと二倍喜んでくれるはずだ。

「いいお兄ちゃんとお姉ちゃんがいて、幸せだよね」

 ティファはそっと腹部に手を添えた。俺はもう一度彼女を抱き締めた。


 結婚という考えが、今まで全く頭に浮かばなかった訳ではなかった。

 だけどティファとずっと生きていきたいということは、形にかかわらず、俺の中で揺らぐことのない大きな柱みたいなもので、それを支えるために結婚というものが必要なのか、実のところ未だにわからない。実際、今までだってずっと一緒に暮らしてきたのだから、そういう手続きをとったからといって、何か生活が変わるというわけではないだろう。

 だけど、きちんと形にするということは、仮にそれほど意味があるものでないとしても、全く無意味なものでもないように思われた。それに、彼女が俺たちの子供を宿したと知った時、その考えはごく自然に、小鳥が枝に留まるように、俺の中に降り立ったのだ。

 だから、義務感に駆られて、とは思ってほしくなかった。事実そうではないのだから。

「あのさ…」

 ティファを抱き締めたまま、ほとんど無意識に俺は呼びかける。

「子供が出来たから、とかじゃないんだ」

 言葉にせずともわかってくれる彼女だが、どうしても言っておきたいことのように思えた。

「それは、知っててほしいんだ」

 ティファは俺の背に回した指に少しだけ力を込めた。

 わかってる、と言っているようだった。











クラウドが指輪を買いに行く話は別に書きたいなあと思ってます。(2011/10/19)


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