Pale Gold(仮)
目が覚めて最初に視界に映ったのは、彼の髪だった。窓越しに見える秋の黄色く染まった木の葉のように、光を受けて儚く淡く映った。
窓から差し込む光との境界線が曖昧で、心許ないけれど綺麗な光景に、ティファは起き抜けの思考の隙間に微笑んだ。
視線をクラウドに戻すと、青い目がこちらを見ていた。笑っていたことに気づいただろうか。ティファは思ったが、口を開く前に彼の腕が伸びて、胸に抱きこまれた。
朝方の空気で彼の肌の表面は少しひんやりと感じられた。だけどそれもしばらくすると、お互いの体温であたためられて、肌と肌の境目も朧になった。
彼の頭越しに窓辺をもう一度見ると、カーテンに光が透けて、縫われた糸が作る線が白く浮かんで見えた。
秋の空気は、なんだか淡い黄金色の気配。思いながら、もう一度まどろんだ。
にわかに冷たさで肩が震えて目が覚める。
キリエの温もりが離れたのと、その彼女が開けた窓から、秋の物寂しい冷たい空気が運ばれてきた。
何度か瞬きをする。昨日からテーブルの上にある、カップに半分残ったコーヒーの水面にさざなみがたった。
「キリエ、寒い」
腕に、うっすらと鳥肌がたっている。キリエは振り返って微笑む。窓を半分だけ締めて、キリエはベッドに戻ってくる。勢いをつけて頭を枕に沈めた途端、枕元の棚に積んであったキリエの服の山が雪崩を起こした。緑やら青やら赤やら。賑やかな色がエヴァンの視界に広がった。
「ごめんごめん」
キリエは笑ってその布をよけると、首に抱きついてきた。
「少しは整理したら?」
言いながら彼女の背中に手をまわす。
自分も筋肉質とかではないし、むしろ薄っぺらいと言われる方に属する体型とはいえ、覆いかぶさると壊れてしまうのではというほどキリエの身体は華奢で、エヴァンはいつも内心肝を冷やす。
「そう簡単には捨てられない性分なの、わたし」
彼女の肌が温かいので、また眠くなりながら、うん、と曖昧に答えた。
「ねえ、コーヒー飲みに行こうよ」
キリエはエヴァンの髪の先を指で弄りながら言った。
非番と決めてだらだらとした日を過ごして、結局昼食を取るには随分遅い、夕方に差しかかる中途半端な時間にやっと、キリエとふたりセブンスヘブンにやって来た。カウンターの席に2人並ぶ。
客足はそこそこ、ティファはいつもの通り、穏やかな笑顔で迎えてくれた。2人分のコーヒーを運んでくると、「ごゆっくり」と言った。
しばらくすると、クラウドがカウンターの内側にある階段をから、姿を見せた。
店の上が住居になっているらしいから、そこで当然彼らは日々、暮らしているわけなのだ。
クラウド、と心の中でも呼ぶのは実はまだ若干の遠慮がある。お互いファーストネームで呼び合うほどの距離感ではない。ストライフデリバリーサービス。そのくらい事務的なほうのが、しっくりくる。これまで交わした会話は全部合わせても多分まだ、十五分くらい。
クラウドはティファに歩み寄ると、何か話しかけた。応じたティファの声は、普段彼女が話す声のボリュームを5とすると、3くらいに落とされていた。別に聞かれて困る会話ではなかったと思うし、はたから見れば取り立てるようなことでも何でもない。
だけどその二人の間で瞬時に行われたチューニングに、ものすごく濃密ででも静かな空気を感じた。その靄のようなものは、手で押しのけても払っても、決して消えず、言わばあちら側へ行くことを許さないのだった。
手を繋いだり、抱きあったり、そういうわかりやすいアクションがなくても、匂いたってくるものがあったのだ。
エヴァンが訳もなく所在ない気分になっているうちに、クラウドは店の後ろ側にあるらしい裏口から外へ出て行った。
頬杖をつきながら、キリエもその動きを目線だけで追っていたことに、エヴァンはやっと気がついた。
「クラウド、前よりよく姿見るよね」
帰途につきながら、キリエはぽそっと口にした。
「うん。そうだね」
「ティファ目当てで来てるお客さん、がっかりだろうなあ」
「はは。そうだな」
わざとらしい乾いた笑いで応じる。もっとも、自分たちよりずっと前からの常連客の間では、とっくに共通認識だったらしい。
「なんかさあ、二人でいる姿見ると」
キリエは髪の先を弄びながら言う。
「やることやってるふたりだなって、感じするもんね」
「え」
キリエが振り向き、子どものように意地悪く無邪気に笑う。
「エヴァン、顔が赤いよ。わかりやすいなあ。想像したでしょ」
「いや、するだろ、想像」
「うん、するよね」
キリエは素直に応じる。こういうところがキリエはすごい。
「幼馴染みってやつなんだって。あのふたり」
「え、そうなの」
エヴァンははた、と気づく。
「てことは、クラウドもニブルヘイム出身?」
「らしいよ。それ以上は、突っ込んで聞いてないけど」
キリエは先を歩く。早歩きは健在だ。
その頃からの縁なのか。
「エヴァン、キリエ!」
ドイル村まであと数分、というところで、血相を変えたxxが走ってくる。
「ビッツが怪我したんだ、早く」
「え、酷いの?」
キリエが眉をひそめる。
「遊んでて転んだ時、落ちてた鉄の看板の角にぶつかったんだ。命にかかわりゃしないだろうが、傷がぱっくり裂けてる」
右脚のふくらはぎ外側あたり、痛々しく割れた傷口から血が垂れている。
「ビッツ、平気か?じゃないよな。大丈夫だからな」
「エヴァン、痛いよ」
ビッツは泣きじゃくっていた。星痕で苦しんでいた時のことが思い出されて、胸が痛んだ。
「とにかく、ドレイク先生、」
「今いないんだよ、ジュノンに用事とかで」
「え、こんな時に」
「どうしよ、他のお医者さん…」
「どうしたの?」
デンゼルの声に振り向くと、マリンと連れ立ってこちらに小走りで向かってくるのが見える。
「うわ、ビッツ、ひどい怪我」
「ドレイク先生、いないんだ。ジュノンに行ってて…」
「他にお医者さん、知ってる?」
ビッツを慰めながらキリエが訊く。
「ティファに聞いてみる。エヴァン、電話貸して」
エヴァンは言われるまま携帯を手渡す。それから電話口で短いやりとりを終えるとマリンが、
「ティファが、連れてきてって」
と告げる。
「でも…」
「連れてきてっていうか、連れてきなさいって」
ためらいの色を感じとったらしいマリンが言い放つ。有無を言わさんとする毅然さがあった。
「はい」
傷に気をつけながらビッツを抱いてセブンスヘブンにUターンすると、迎えたティファがすかさずビッツをベンチの席に横たわせるよう促す。傍らには四角い箱が置いてある。薬箱だろう。消毒薬を染み込ませたガーゼでビッツの傷口を拭きとると、ビッツが一段と激しく泣く。
「ごめんね」
ティファがすまなそうにビッツに声をかける。
「縫わないと、だめだね」
ティファは箱から、白い錠剤が嵌ったアルミのシートを取って一粒を取り出す、消毒液の瓶の底をあて、手首に体重をかけて砕いた。
意図を汲んだらしいデンゼルがキッチンの中に駆けて行き、水を入れたグラスを手に戻ってくる。ティファがありがとうと言いながら受け取る。
キリエは跪いてビッツの手を握っている。
「飲んで、大丈夫だから」
ティファに薬の欠片を促され、ビッツは上目づかいでティファを見返すも、抵抗せず飲み下す。
「目、閉じて楽にしててね。力抜いて」
ティファが優しくビッツに語りかけると、ビッツは涙でぐちゃぐちゃになった目を素直に閉じる。そうして数秒程度経ったところで、驚くほど突然、事切れたように眠った。すーすーと場違いなほど平和な寝息を立てていた。
「ちょっと強い痛み止め」
その場に漂う疑問符を読みとったように、ティファは手短かに説明した。
前にツォンが言っていた、耐えられない時に気絶させるとかいうやつだろうか?エヴァンは訝る。なんでそんなものがあるんだろう。
ティファはビッツがおとなしくなったのを確認すると、針と自分の手をドレイク先生の診察室で見た覚えのある医療用の消毒で拭った。強烈なアルコールの匂いになぜか改めて背筋が伸びた。
エヴァンとキリエは顔を見合わせる。縫うって、ティファが?
「痛いよ、見ない方がいい」
ティファは子供たちに顔を向けて言う。が、おそらく言葉はその場にいる大人にも向けられているとエヴァンは思う。
それから見慣れた穏やかな表情を一旦横によけ、真剣な眼差しで、慎重なだけど迷いのない手つきで針と糸で傷口を縫い始めた。
沽券にかかわるので、エヴァンは目を逸らしたいもう一人の自分を叱咤し、一部始終を見届けた。なんだか胸の手術痕が痒くなったが、なんとか耐えた。
隣のデンゼルも、唇をきつく結びながらも目を逸らさずに見ていた。マリンのほうは、むしろもっと落ち着いていた。
終わるとティファは、まだ意識がないビッツの汗ばんだ額から前髪を払いながら、後でちゃんと医者にみせるようにと念を押した。それから痛み止めだと言ってカプセルの薬をいくつかくれた。
「さっきのとは違うから、心配しないで」
まだ眠った(たぶん)ままのビッツを背負って二度目の帰路につきながら、エヴァンはふと思う。キリエは歩調を合わせて隣を歩きながら、三十秒に一度くらいちらちらとビッツの様子を心配そうにうかがう。
エヴァンはため息をひとつつきながら思う。ティファは、なんであんなことのやり方知ってるんだろう。おそらくキリエも、同じ疑問を抱いているだろうと思いながら。
やはり、ティファたちを取り巻く事情の計り知れないこと、海の如し。
次の日ひとりでエヴァンがセブンスヘブンを訪れると、テーブル席に三組ほどの客の他に、カウンターに先客がいた。短い黒髪の、丸くて綺麗な形の後頭部が目に入った。
こちらに気づいたティファが微笑みかける。エヴァンは先客に多少の遠慮を感じたが、カウンター席に歩いていき、ひとつぶん席を空けて腰をおろす。
「いらっしゃい」
ティファは言うと、エヴァンと隣の女の子に交互に目配せする。
「二人、会ったことあったっけ?」
ティファの問いに、二人は首を軽く横に振る。
「エヴァン、こちらはユフィ。古い友人なの。ユフィ、こちらはエヴァン。お店のお得意さん」
ティファに仲立ちされ、二人は改めて軽い挨拶を交わす。
エヴァンは失礼のない程度にユフィを観察する。ひょろっと華奢でいかにも快活そうな外見に似合い、声も明るくとおるものだった。
ところで何かがひっかかる。
「どっかで会ったことあるよね、お兄さん」
彼女が先にそう代弁する。
「うん、自分もそんな気がしてるんだよね」
「うーん」
また期待を裏切らない大げさな仕草で、顎に手をやりユフィは考えている。
「まいっか」
そういうやりとりがある間に、ティファが紅茶を用意しエヴァンの前に置く。
「ありがとう。あと、昨日のことも」
「ううん、大丈夫?」
「薬が効いて落ち着いてる。今はキリエがついてくれてる」
ビッツの様子についてしばしやりとりをしていると、急にユフィが声を上げた。
「あ、わかったかも。ルーファウス神羅、似てるね」
尻切れになっていた話題をユフィが戻し、改めてエヴァンの顔を吟味する。
「えーと、割と言われる。よく」
「ね、ティファ、思わない?」
ティファにじっと見つめられ、エヴァンは居心地が悪くなる。
「そうね、そうかも。言われてみれば」
「だよね、うん。いや、でも、誰かに似てるのもそうなんだけど、もっと、こう個人的なことで」
エヴァンも同感で、記憶を辿ってみたがしかしどれも繋がらなかった。
「なんだったかなあ。あ、それよりさ。ティファ、これ」
言いながらユフィはバッグを漁り始めた。ころころ関心事が変わる子だな、とエヴァンが思っていると、ユフィが中から白い紙袋を取り出し、ティファに渡した。
「新薬だよ。今までのより副作用かなり少ないんだって」
「ありがとう。おつかい頼んで悪いね、助かる」
「ちょうど来る用事あったんだ。いいのいの」
ユフィが手をひらひらとする。
「その開発グループの中心の先生がさ、」
ティファの淹れた紅茶を口元に運びながらユフィが続ける。
「ちょっと見かけただけだけど、すごい男前。リーブのツテのツテかなんからしいけど、名前なんだったかな」
ユフィはまた腕を組み考えている。
ティファはくすっとエヴァンに笑いかける。顔とか名前を覚えることはどうやら苦手らしい、ユフィという子は。
二杯目の紅茶を飲み干した頃、行くところがあるとユフィは立ち上がり、ティファも彼女を見送るために後に続こうとした時、ユフィの表情が閃いた。
「あ、思い出した」
「なに?」
ティファは首を傾げる。
「名前。Ca…!」
「Ca…?」
ティファが止まる。白い頬の横をピアスが余韻で揺れた。
「どちらの?」
の、の唇の形のまま、ティファはユフィを見つめた。
「上の名前?なんだっけなあ」
そのことを追求する隙もなく、店への来客でその話は中断された。
客に向けるいつもの穏やかな笑顔を作る直前のほんの短いの間、ティファが睫を伏せたのを、エヴァンは気づいた。開いたドアから風がわずかに流れてきて、髪の先が震えるように揺れた。
昼寝から目覚めて、ついさっきまでいた夢の中と現実の区別がついていないような、今までエヴァンが見た中で一番無防備な表情だった。
帰り道、ふとエヴァンは立ち止まり、あ、と膝を叩きたい思いがした。
あの子、荒野のルール。ティファと知り合いだったのか。
ユフィに続いてエヴァンを見送ったあと、客足が落ち着いた店内に差し込む淡い夕日の色にティファはふと気づき、窓に目線を送る。
店の一角に、オレンジに乳白色を混ぜたような日だまりができていた。
ティファはため息とも言えない息を静かに吐いた。それからユフィが持ってきた白い袋の中身を取り出し、しばらく考えに耽った。十錠ずつ並ぶ白い薬を乗せたアルミのシートが三枚、輪ゴムで止められている。
ユフィが口にした名前を持つ人を、一人だけティファは知っていた。特別珍しい苗字ではないと思う。だけど。そこでティファは一瞬、呼吸が止まったような気持ちがした。
七年前。もうすぐ八年になるだろうか。命からがらニブルヘイムから助け出されてからの、最近ではほとんど思い出すことのなかった日々のことが、意識の水面に沸々と、たくさんの小さな泡のように浮かんできた。
鎖骨の下に手を置いて、服の下にある肌を軽く押した。
初めてその傷の形を見た時、自分の内側から皮膚を爪で突き破ってきた魔物みたいで、おぞましかった。
眠りから覚めた時の記憶は、薬で朦朧としていたからか、あまり覚えていなかった。
意識、というものを意識したことはない。だけど思い返せば、その時、名前を呼ばれたような気がしたのが、中断されていた意識が開けた瞬間の始まりだった。
長い長い夢を見ていたような気がしたけれど、夢の中身は空っぽで、なにひとつその形をとどめてはいなかった。
頭の回路が何も繋がっていなかった。水の中で目を開ける時のように、何もかもがゆらゆらとぼやけていた。
「ティファ?」
はっきりと呼ばれたのがわかった。それは自分にとって、馴染みのある名前だということも。男の人の声だった。
何度か瞬きをした狭間に、白いシャツを着が、私を覗きこんでいるのが見えた。
目を開け続けていることが、ものすごい努力が必要な動作に思えて、またすぐに閉じたくなる衝動に駆られた。
「目で追ってみて」
私の無意識の葛藤を読んだかのように言うと、その人は人差指を、私の視界の左右に動かした。それから頷いたので、私の目はやっぱり無意識に、その望まれた動作をしたのだと思う。
私は寝かされているらしく、見上げるとその人の背後には天井が見えた。
「自分の名前、言えるかな」
喉がからからで、音が出なかった。
唇の動きを読んだのか、その人は安堵したように少し微笑んだ。
「数、数えれる?」
頭の中で、1から5まで数えたけれど、声を出すのが億劫で、私は顎だけで頷いた。
「誕生日、言える?」
「...5月、3日」
掠れているけど、やっと声が出た。その人は、満足げに頷いた。
風が強く吹き込んできて、白いカーテンが部屋の内側に舞い上がった。
その人は立ち上がって、はしゃぐ大きな犬をなだめるような手つきで布を抑えながら、窓を閉めた。
風が途切れて窓の前にカーテンが落ち着くまでの隙間から、薄紅から紫にグラデーションする空が見えた。
それから、その人はまた私のところに歩いてきて座った。
「体が、痺れて動かない」
言ったあとに咳払いをすると、腹筋のあたりが痛くなって、眉をしかめた。
「大丈夫」
目の前にいる人を、私は知ってるんだっけ。
「あなたは、誰」
映画や本で見たり読んだりしたことがあるやりとりだ。
「はじめまして」
その人は言う。どうやら、記憶喪失とかではないみたい。
彼は、N…と名乗った。
苗字はCa…。
それから急に、感じたことのないような疲労感がやってきて、私はまた眠ってしまったらしかった。
次に目が覚めた時は、翌日の昼だと教えられた。
どうしてこんなに眠いんだろう。私はどのくらい、こうやって過ごしていたんだろう。そう思った時、急に胸の中に深く、重いものが落ちたみたいな感じがした。
数日ののち再度、エヴァンはセブンスヘブンに足を向けた。ビッツの抜糸の日で、戻ってきていたドレイク先生の診療所を訪ね、ビッツを家へ送り届けた後だった。
着くと、デンゼルが店の玄関の枯葉をはいているところだった。こちらに気づくと顔をあげる。
「ティファなら、今いない。夕方にまた営業再開だけど」
「そっか。えーとじゃあ、とりあえず、伝言頼めるかな」
エヴァンの言葉にデンゼルは頷く。
「ビッツは、大丈夫だ。お礼、伝えてもらえる?」
デンゼルはもう一度頷いた。それからはエヴァンの顔を窺うように、意味ありげな目で数秒見つめた。
「ティファはああゆうの、平気なんだ」
デンゼルが唐突に言う。
「ああゆうの?」
「血とか」
デンゼルは興味なさそうに掃除を続けた。
「知りたそうな顔してたから」
そんなにいかにも興味津々然としていただろうか。エヴァンは恥ずかしいような所在のないような気持ちになった。
「僕の病気も、嫌がらなかったし」
デンゼルは淡々と言う。
「そっか、ティファは、なんていうか、優しいけどタフだよな」
「うん」
デンゼルはまた作業を再開した。その表情が妙に、ティファに似ているな、とエヴァンは思う。
──色々あってね。
ずいぶん前、ニブルヘイム行きについて相談した時、そう言って目を伏せた彼女の表情を思い出した。でもあの時とこの間とでは、少し趣が違う気がした。
「すごいねぇ、ティファ。なんでもできちゃう」
家に戻ってその話をすると、キリエは嘆息混じりで言った。
「ティファって、ニブルヘイムのお嬢さんだったらしいよ。都会に憧れたのかな?実家はお医者さんだったとか。あんなのできちゃうんだもん」
「うん、あるかもな」
「いろいろあるんだよね、みんなきっと」
「うん、いろいろ」
エヴァンはそこで一度止まった。
「俺はまだまだ。いちいち痛感する」
「そういう謙虚さがエヴァンのいいとこ」
キリエはにっこり微笑みながら、腕を伸ばしてエヴァンの髪を撫でてくる。
「慰めになってないような」
「だって完成されたと思うときなんて、来るのかな?人生終わっちゃわない?」
「キリエのそういう、根拠なく前向きでたくましいところ、いいな。さすがはスラム育ち」
キリエの表情が、建物が陽射しが遮られて唐突に影るようにさっと変わった。不機嫌さが顕わだった。
「すいませんねぇ、育ちが悪くて」
声に卑屈さが混じったのをエヴァンは聞きとった。
「え、そんなこと言ってないだろ」
「言ったよ」
「それは違うよ」
「違わない。あのね、エヴァン」
キリエは立ち上がる。
「それはひどいマナー違反。いい?コンプレックスを、本人がジョークにすることと、他の人がすることは、意味が全然違う」
いつもするような軽いやりとりだと思っていたのに、穏やかではない方向に向かっている事態に、エヴァンは戸惑い焦った。
「それは、意味が全然違う」
キリエは大きく溜息をついた。
「なんか、嫌」
嫌悪と悲しみに満ちたキリエの声とともに、何かがエヴァンの方に投げつけれ、
「うわ、」
腕で防御をとりながら間抜けな声が出るのとほぼ同時に、キリエが大げさにバタンとドアを閉めて、出て行くのが見えた。
投げつけられたものを見てみる。クロスに包まれた、おなじみのマールのお手製のパンだった。それが妙に重くエヴァンには思えた。
(2020/09/01)