鑑賞者



絵画みたいな女だと思ったんだ。

心奪われる絵を前にした時、その場から離れられなくなるように、何故かずっと見ていたくなるような女。

出番を控えたセリスのいる楽屋へ歩みを進めながら、俺は考えていた。

断っておくが、絵画鑑賞なんて高尚な趣味は俺にはないんだ。ただトレジャーハンターという肩書き上、戦利品の絵だとか彫刻だとかをジドールのコレクターなんかに持ち込むこともあるから、多少の知識がない訳ではない。

何年前のことだったか、俺は没落して焼け落ちたある商人の館の地下室から掘り出した絵画を、懇意にしている鑑定士の爺のところに持ち込んだ。日付もサインもなかったけれど、没後二十年以上経って最近ようやく美術的価値が認められ始めた、とある画家の作品だと推察される、と爺は言った。

シンプルで素っ気ない絵だった。長い髪をまとめながら身繕いをする女の絵。装飾の少ないほの暗い部屋で、カーテン越しに光を差し込む窓に目をやる若い女。

俺はこの手の絵が好きでね、と爺が言った。

「あえて沢山のモチーフを描かないことで、鑑賞者に自由な解釈の余地を与えるわけだ。粋だと思わないか?語りすぎる絵なんて煩わしいだけだよ。女もそうだろ?」

語らないから、知りたくなる。なるほどね。

あいつは多くを語らない。だけど皆あいつに目を奪われる。

あいつは、とにかく美しい。

俺に限ったことじゃないんだ。好みかどうかは置いておいても、あいつが美人だってことに異論を唱える奴はいないはずだ。異論どころか、男でも女でも、すれ違うだけで息をのまずにはいられない、それくらい人間の本能だとか、遺伝子だとかに訴えるものがある。美人なんて見るのも抱くのも慣れてるエドガーだって、あいつを見た時目を開いたのに、俺は気づいていた。絵描きが己の作品の中に至高の女を描くように、神様か何かが意のままに作り上げた完璧な美貌。

絵の女に似ていた訳じゃない。だけどあいつを初めて見た時、何故かその絵が脳裏にふと浮かんできたんだ。構図のせいかもしれない。俺に気づいて見上げたあいつの顔は、薄暗い地下室の小窓から差し込む光に照らされていた。あの日、サウスフィガロはあんなに天気が良かったっけ?

いつの間にか辿り着いてしまっていた、あいつがいるはずの楽屋の前で、俺は動けずにいた。

そういえばこの廊下はやたらと靴音が響く。ここまで来る間に俺はあれこれ考えながら、自分の規則正しい足音が鳴り響くのを思考の後ろのほうで聞いていた気がする。タイムリミットを刻む秒針の音。

なあ、俺はなんで来たんだ?

決まってる。今度の作戦は重要だ。南の大陸に乗り込むためには件の賭博師の船が必要だ。セリスにしくじられちゃ困る。全てはあいつの肩にかかってる。とはいえ誘拐劇を提案したのは俺だから、責任は自覚している。だから様子を見に来ただけだ。

……嘘だ。あいつが心配だからだ。顔を見たかったからだ。あいつに出会ってからずっと感じていたもやもやとした気持ちが何なのか、確かめたくて来た。……はずだ。

ああ、わかんねえよ。

俺はどうしたいんだ。


肖像画の被写体のように着飾って鏡の前に座るセリスに、俺は文字通り息を呑んだ。結んだ青いリボンが補色となって金髪を引き立てるから、長い髪がいつもより一層眩しい。

「まいったなこりゃ」

動揺を誤摩化すように、俺はそう言った。

セリスは怪訝そうに首を少し傾げた。鏡越しのその仕草がやけに幼く見えて、喉元がむず痒くなる。俺は鏡に映る自分を直視できない。俺は今どんな顔をしてるんだろう。

「お前、やっぱり美人だよな」

少しだけ口角を上げてあいつが微笑む。それから立ち上がって俺の方に向き直った。

「聞いてもいい?」

鏡越しでなく俺を見てくるセリスは威圧的なまでに美して、俺は何も喋れなくなる。疑問形で言ったものの、最初から伺いを立てる気などないのがわかる。

「どうして私を助けたの?」

セリスは続ける。

どうしてだって?

「……好きになった女を失うのは、二度と御免だからな」

言っちまった。俺の馬鹿。だけど仕方ない。考えるより先に口が動いていた。

「私は代わり?」

なんだって?

「あの人の、代わり?」

それは…

違うんだ。違うって言え。

違う、だけどその後が続かない。違うけど…でも、だったら何なんだろう。こいつは、俺にとって。あの時俺は、なんで似てるなんて思ったんだろう。背格好も、髪の色も、目の色も、声も、全部違う。

絵の中の女なんかじゃない。俺が眠らせたレイチェルでもない。こいつは、生きてここにいるんだ。

実感したいんだ。

答えないまま一歩進むと、俺は彼女に手を伸ばしていた。形のいい顎を包むように両手を添える。一瞬だけ微かに肩が震えたが、セリスは俺を拒まない。親指で彼女の頬を撫でる。柔らかい感触が指を伝う。セリスは目を逸らさない。誰のものにも似ていない目だ。

なあ、お前が俺を止めてくれよ。

山間の湖みたいな青い瞳に、引きずり込まれそうで怖いんだ。

魔法にかかったように、引き寄せられるように唇を彼女のそれに重ねていた。夢中だった。頭の中が真っ白で、頬に触れる指の感覚も失われた。触れている唇の感覚しかなかった。角度を変えながら長く呼吸を奪い続けた。奪われていたのは俺の方か。

顔を離して目を開くと、彼女もゆっくりと瞼を持ち上げるところだった。さっきと同じ目で、俺を真っ直ぐに見つめてくる。

そんな風に見るなよ。なんで止めてくれなかったんだよ。馬鹿。俺はどんな風に見えてるんだよ?

セリスは動かない。

なんて苦行だ。

耐えかねて俺は彼女の髪に手を伸ばす。

「リボン、似合うな」

何言ってるんだろう。ああ、俺は救いようのない馬鹿野郎だ。

早く離れろ。俯瞰の自分が囁く。

だけど止まりたくない俺がいる。

髪と頬に添えていた手を腰の方にずらして、抱え直そうとした。

だけどセリスは、

「衣装が、くずれる」

それだけ言うと、俺の腕から逃れた。

翻った首筋が眩しかった。


楽屋の扉を後手に閉めると、そのまま凭れ掛かった。大きく息を吸って、吐く。

やばいな、俺は。

なんであいつはあんなに余裕なんだ?俺の方がぎりぎりだ。喉が渇いて、血が滲みそうなんだ。

ああ、衣装のせいかもな。別人のつもりなのかな。

俺、完全に不利じゃないか。

扉に背中を預けたまま、ずるずると床に腰をおろした。至近距離で見つめたあいつの顔を思い出す。着飾った姿も様になるけど、俺は普段の飾り気のないあいつのほうがいい。彼女のものに重ねた唇に、手の甲で触れる。ついさっきのことなのに、前世のことみたいに遠く感じられた。だけど俺の心臓はまだ音を立てて打っている。


遠くでオーケストラが聞こえる。オペラが幕を開けたようだ。


俺は、実感してしまった。

怖いくらいに青い目の色とは裏腹に、あいつの唇は温かかった。

なあ俺、思い出しちまったんだよ。

俺も、生きている人間だってことを。

本当は知ってたんだ。

初めて見た時から、俺は自分の中に膨らんでいく感情に気づいていたんだ。

守ってやりたいだとか、正義感から来るものじゃない。

庇護欲なんて、お行儀のいい感情じゃないんだ、これは。

もっと原始的で、野蛮で、率直で、純粋だ。

俺はあいつが欲しいんだ。





ロックの悶々を書くのはすごく楽しいです。(2011/9/16)



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