空の石
ロックと待ち合わせをしている噴水の、レンガ造りの縁に腰掛けて、セリスは改めてその本を眺めた。
年季を感じる掠れた表紙、くたびれた骨組。鼻を寄せると、少し埃っぽい匂いがする。あの大崩壊でも失われず、こういう古いものが残ってくれたことを、セリスは嬉しく思った。
表紙を開いたところで、向こうから名前を呼ぶロックの声に、セリスは顔を上げた。
「待った?」
ううん、とセリスは首を振る。
「なんか買ったの?」
隣に腰掛けながら彼女の膝の上のその本に目配せをして、ロックが言う。
「この装丁になにか見覚えがあって手に取ってみたら、昔読んだことがある本だったの」
セリスは本を閉じ、表紙をロックに示しながら言った。
「どんな話?」
「おとぎ話よ。ラピスラズリの騎士が、真珠のお姫様と旅する話。彼らの種族は胸に宝石の核を持ってて、その核は彼らの心臓なの。傷ついたり、奪われたら、死んでしまうのよ」
ふーんとロックは返事をしながら、
「そういう種族がいたって話、聞いたことあるな」
「ほんとう?」
セリスは目を見開いてロックを見る。
「うん。もともとばあちゃんから聞いた寝物語のひとつだったと思うけど、トレジャーハンター稼業を始めてからも、似たような話を聞いてさ」
そうすることで記憶を辿る手助けになるかのように腕を組みながら、ロックは続ける。
「同業者の間で、幸せの四つ葉って伝説があるんだ。ハートの形をしたエメラルドでさ、四つばらばらに世界のどこかにあるって。四つ合わせるとクローバーの形になるだろ?それが幸運をもたらすって、だから、幸せの四つ葉」
説明しながら、ロックは宙に指でクローバーの形を描いてみせた。
「エメラルドの四姉妹の、奪われた核だって話なんだ」
ロックの声は呟くようだった。もし本当だとしたら、そういう事情の宝を求めることに後ろめたさがあるというような響きだった。
「おとぎ話みたいだろ」
既にいつもの朗らかさを取り戻して、ロックが言う。
「おとぎ話か…」
今度はセリスが呟く。
おとぎ話として片付けられないことがこの世にはあると、彼らは身をもって知っていた。おとぎ話と思っていた、幻獣や魔法の存在を、彼らは目の当たりにしたのだから。
ふいに、セリスの頭の中に何かが閃く。彼女がロックに視線を向けると、偶然にも、ロックもそんな表情を見せていた。
「もしかして、本当にそういう種族が存在したとしたら、彼らも実は…」
「ひょっとして…幻獣だったりして…」
そのやりとりから、また二人の間にある考えが閃く。
「核は、魔石みたいなもの…?」
セリスが二人分の疑問を口にした。
腕を組み直しながら、ロックはうーんと唸った。
「だとしたら、幸せの四つ葉はもう見つからないな」
セリスは小さく頷いた。
魔法も魔石も、この世界から消えたのだから。
「まあでも、世界にはお宝はまだまだいっぱいあるからな」
言いながらロックは胸のポケットに手を差し入れ、風のような動きでセリスの目の前に何かを掲げた。
「頼んであったんだ」
金色のチェーンに通した、深い青い色をした石のネックレスだった。
「戦利品。ラピスラズリの原石を、加工してもらったんだ」
タイムリーだろ、とロックは言い足した。
用事というのは、宝石店に行くことだったのだ、とセリスは合点がいった。目の前のそれを両手で慎重に受け取ると、形のいい目を凝らすようにして見つめた。
ラピスラズリの濃い青と繊細なチェーンの金色に陽の光がさして、粒のような煌めきを発した。
「…盗んだ宝石じゃないでしょうね」
セリスは訝しげな目をロックに向ける。だけどその目は微笑をこらえていた。
「見つけたんだよ、洞窟で」
苦笑を噛み殺しながらロックは答える。
「まあ、それならいいけど」
わざと澄ました声を出す。私は泥棒の片棒を担ぐ気はない、とセリスはかねてから言っていた。当然、人様の屋敷だとかから盗んだお宝を贈られる気はない、ということだろう。
気を取り直して、という風にロックは咳払いをして、続けた。
「ラピスラズリって、天空の石っていうんだ。でもなんか変だなと思ってたんだよ。空にしては、随分濃い青だよな。どっちかっていうと、海っぽいだろ」
二本の指でその石を摘むようにして、セリスは改めてそれを吟味する。確かに、深海を思わせる濃い青だ。ロックは続ける。
「これ見つけた時さ、すぐお前のこと思い出したんだ。なんでかわかんないけど、お前は、空って感じがするんだよな。海より。それでやっと、この石と空のイメージが繋がった」
空って感じがする、なんて初めて言われる言葉だった。その言葉自体が嬉しいのか、ロックの言葉だから嬉しいのか、わからないが、とにかくセリスは嬉しくなった。
「つけてみていい?」
「貸して」
ロックはそれを受け取ると、彼女の背後に回る。邪魔にならないように髪をまとめながら、セリスはロックの動きに委ねる。
金色のチェーンを誂えたのは無論、彼女の髪をイメージしてのことだった。そういえばこの金髪は、太陽のようだ、とロックはふと思った。
つけ終えるとロックはセリスの正面に向き直った。彼女の白い胸元の、鎖骨の間の窪みにちょうど収まるその石を、ロックは微笑を浮かべながら、目を細めて見つめた。その表情が、贈り物そのもの以上に、セリスの心を嬉々とさせた。
この色は、セリスにはむしろロックを思わせる色だった。ロックの頭には、いつかの孤島でセリスを救った青いバンダナが巻かれている。再会してから、彼女はそれを彼に返した。その青は、まるでもともとひとつのものから生まれたかのように、今彼女の胸元にある石の色によく似ている。
もしかしたら、そのバンダナの代わりに、ロックは私にこれをくれたのかしら、とセリスは思った。
あー、と唸りながらロックは大きく伸びをして、そのままレンガの上で仰向けに転がった。ロックの目線をなぞるように、セリスも空を仰ぎ見た。
「いい天気だな」