Innocence Lost


02.



 夜の間に吹雪は静かな雪に変わっていた。

 部屋を出て左手の突き当たりには、運河に面した窓がある。そこから見える運河沿いの柳の枝は、白い雪を被って水面に頭を垂れて静かに揺れていた。午前の風はごく僅かだ。

 お茶をもらいに階段を下りていると、階下の廊下で女中が木の台に乗って何かしているのが見えた。近付いて見れば、壁の大きなタペストリーをはずしているのだとわかった。私に気付くと台から降り、ほぼ同じ目線の高さに軽く微笑みを寄越してくれた。背丈は私と同じくらいだ。

 私の興味を察したのか、今しがたはずしたものを広げて見せてくれた。描かれていたのは、かつてのナルシェ地方の地図だった。窓からの光に長い間晒されてきたのか、ずいぶん茶色く染まっていた。

「昔のものを大事にしても仕方ないからって、奥様が言うものでね」

 言いながら地図を巻き脇に抱えると、舞った埃に目をしかめて咳こみながら台所のほうへ消えていった。

 その言葉の余韻を聞きながら、私はしばらくその背中を見ていた。


 部屋に戻ると、ロックはテーブルについてダガーを研いでいた。もらってきたお茶をテーブルに置くと、彼は湯気越しにありがとうと呟いた。

 自分のカップから一口だけお茶を啜ると、私はそれもテーブルに置き、自分の荷物から封筒をひとつ取り出した。セリスへ。インクがシドの字でそう記している。それを私はロックに差し出した。

 ロックは作業を止め、尋ねるような視線を手紙と私に送ると、何も言わずに手に取った。そしてゆっくりと開いた。







 シドからのひとつめの手紙は、私に島を出ることを促し、そしてその方法を示していた。

 もうひとつの手紙は、ノートを破ったページ何枚にもわたっていて、分厚く半分に折られていた。

 私に語りかけるように、書かれていた。





  幼い頃から、お前が自分の親のことを尋ねることはほとんどなかったように思う。 自分の置かれた普通とは離れた境遇を、どこかでわかっていたのだろうか。だけど私には、お前は一人の人間として、自分の親が誰かのか、なぜ自分が存在するのかを知る権利と義務があるように思うのだ。

  お前の母親は、私の研究室の助手だった女性だ。彼女はもともと医学の博士号をもつ優秀な学者で、魔導研究所に引き抜かれた。魔導研究の根幹、それは幻獣から取り出した細胞を人間に移植すること。医学に秀でた優秀な人材が必要だったのだ。

  何年もの研究の課程で得られた効果のデータは、様々だ。拒否反応ですぐに死んでいった者。力は顕われたが、精神を病んだ者。それらの結果のひとつに、いわば研究の副産物だが、ある病気の回復が見られたことがあった。その病気は当時まだ特効薬がなく、罹れば死を意味した。

  その効果についての更に研究を勧め、臨床試験を重ねていたのは彼女だった。彼女はその後、研究の半ばで死んだ。出産の際の大量出血が原因だった。産んだ子…セリスは、生き延びた。

  お前の父親と彼女は婚姻関係になかったが、深く愛し合っていたのを知っていた。彼は陸軍の少将で、将来を嘱望される優秀な騎士で、軍人だった。彼には既に妻がいた。政略結婚だったらしいが。彼女が私に話した訳ではない。だけど彼女の死後、彼がツテを辿り私のもとを訪ねて来たのだ。決して口を割らなかった彼女に、私は彼女の愛情の深さを見たのだ。

  お前を認知はできない彼の立場を理解し、私は引き取り育てることを申し出た。彼は深く頭を下げた。最後にお前を抱いた姿が、忘れられない。

  子供のいなかった私には、お前の存在は光のようだった。産まれた時に新しく薔薇の苗を植え、時間を見つけてはお前を温室に連れていき一緒に花を育てた。

  その頃には私は本来の魔法の研究に忙しく、彼女の残した研究はないがしろにされ、その内私は忘れていった。

  セリスの病気が発覚したのは、四歳のとき、彼女が死んでちょうど四年だった。彼女が研究していた病気だった。

  私ははっとした。記憶の隅に追いやられていた彼女の研究。セリスを救う方法は、それしかないと。だけどそれは当然危険な賭けであるという事実も、重く肩にのしかかった。

  私は箱に入れて忘れられていた膨大な量の彼女の研究ノートを憑かれたように読み漁った。彼女の死までに積み重ねられていたデータで、投与されて回復した患者は約五割。半分は合併症や拒否反応で死んだ。魔法の力が顕われたものは、その中にはいなかった。だけどまだいないことと、絶対に起こらないと結論づけることは別だ。

  帝国の魔導研究、その存在は極秘事項だ。表向きには古代書の研究をしているところくらいになっていて、人体実験が行われていることは一握りの人間しか知らない。内部の人間は、親や伴侶であってもそれを明かしてはならない。彼は知る素振りも見せなかったので、彼女は機密を守り通して逝ったのだと思っている。

  だけど私は、それを破り、彼に話した。血を分けた父親は彼なのだ。セリスを助けられる方法がひとつだけあるかもしれない。しかし相当のリスクを伴う。そして考えられる結果は、一つは失敗、二つ目は完治、三つ目は…治りはするが、この世のものではない力を得るかもしれない。

  私が話し終えると、彼は頭を抱え、肩を揺らし荒く呼吸をしていた。

  ──この子にもし魔法の力が顕われたら、私は殺して自分も死にます。道具として利用されるなんて、そんな不幸を負わせるなんてできない。だけど一筋でも可能性があるのに、ただこのままなにもせずに死ぬのを見届けるなんて、そんなことは父親としてできない。認知もしていない身で偽善なのは百も承知だが……。だから、もし…もしそうなった時は、すぐに報せると約束してください。それが、同意の条件です。

  私は彼女の研究ノートをさらに熟読し、同じものを調合した。セリスがどうか生きますように、普通の子供として生きられますように、そうただ祈りながら。

  投与が終わってしばらくして、セリスの容態は目に見えて快復した。それと同時に、恐れていたことが起こった。その日、セリスの指先から、薄い霧のような、白く冷たいものが現れ、みるみるうちに、蒸気が冷やされ固まり氷の粒に姿を変えた。名前を呼びかけると、お前はその利発な顔を上げ、それから手の中のものをじっと見つめた。誰に教わるでもなく、怖がるでもなく、淡々としてそれを見ていた。それは私を恐れさせた。

  セリスの父が遠征先で戦死したと報せが入ったのは、それから数日後のことだった。こんなことを言っては不謹慎かもしれないが…ある意味では、彼は幸せだったかもしれない。娘の力の目覚めを知らずに死んでいったのだから。だけど同時に彼は、病魔から逃れた娘の姿も見ずに死んでいった…。彼との約束を果たすことはできない今、私にできることは、セリスの力を隠し、育てることだと思った。

  だが意志とは無関係に発せられるその力が人目に触れるのに時間はかからなかった。私は脅され、セリスの教育が始まった。私の葛藤とは裏腹に、目覚ましく己の力を花開かせていくセリス。

  彼との約束を果たすのならば…私はお前を殺して自分も死ぬべきなのだろうか。その呪いのような考えに苛まれたこともあることもある。だけど、なんの罪もないお前に手をかけるなど、到底できるはずがなかった。それに、これは自分に対する弁明にすぎないかもしれないが、彼が生きていたとして、それが本当にできただろうか。我が子に手をかけるなど……

  自分の時間が限りあることを私は理解している。人生の最後の時間をお前と過ごせたことが、自分勝手だが何よりの慰めだ。 お前を残して逝くのが辛いが、お前は強く生きていける人間だと信じている。お前は私と、彼女の研究の、最大の成功例であり犠牲者だ。許してほしいとは言わない。せめて、命と力を賢く使い、生きてほしい。





 涙でインクがところどころ滲んだ手紙を畳んで、私はよろよろと立ち上がった。

 ベッドに横たわるシドの目は閉じられていて、手は胸の前に組まれていた。苦しまずに旅立ったのなら、幸いだ。それでも涙は止まらない。

 ここを出よう。まだ果たすべきことを、果たさなければ。その前に、弔いをしなければ。供えてあげられる花はないけれど、亡骸をこのまま置いてはいけない。思いついた方法はひとつだった。

 家の前に立って、まだ嗚咽の名残で荒い息を整えるように、深く吸った。

 普段あまり使わないのに、不思議と覚えている呪文を唱える。昔から、そう、小さな頃から、氷の方が出すのも制御も上手くできた。誰に教わるでもなく。自分の声が、なにか別の場所から湧き出ているように聞こえた。

 やがて指先に淡く炎が浮かんだ。少しずつ大きく広がって、掌から腕全体へ、少しずつ量を増していく。花束を結うようにその炎を集めて、さよならを言うように、手前へ送った。

 炎は現れた時と同じように少しずつでも確実に大きさを増して、家を包んでいった。どうかそこにいるシドを、安らかな場所へ連れて行ってくれますように。そう願いながら、夕陽と溶け合った炎が燃えるのを、ずっと見ていた。









 読み終えると、読み始める前よりもずっと質量を増したように思える手紙を俺はそっとテーブルに置いた。

 暖炉の火がほとんど落ちかけているのに気付いて、ひとつ薪をくべた。

 セリスは、窓辺に座って体を畳むように膝を抱いていた。その彼女にしては珍しい子供のように丸まった姿を見てふと、いつも彼女は、座っていても立っていても、堂々としていて、長い手足を持て余しているようなのだと気付く。

 セリスは泣いていた。音も出さずに、雪がただまっすぐに降るように、涙だけを流していた。俺は彼女の肩を抱いた。

 セリスのことが大事だから、何をしてでも生きてほしかったんだよ。わかりきっているだろうことを口にするのはやめておいた。その静かな儀式を邪魔しないように、できるだけ静かに抱き締めた。

 見れば、窓の外にも静かに雪が降っていた。









 ふと目が覚めると、雨の気配が残っていた。夜中に目が覚めてしまったみたいだ。部屋は暗い。昼間よりはずっと弱いけれど、まだ降っている音が聞こえる。

 今朝も、雨が降る音で目が覚めた。空気の温度が、それでも寒いけれど昨日までよりずっと暖かいと感じた。明日はきっと晴れるんだ。そう思った。

 暗闇の中に、私に腕を回したまま眠る彼の寝息が静かに響く。目が慣れると、目の前にある眠る彼の表情を観察する。

 今朝も同じようにした。眠っている顔を見ると、やっぱり少し顔立ちが幼くて、私は顔がほころぶのを感じた。バンダナをしていない姿は、この数日で見慣れたものになった。枕に置かれた手の甲に巡らされた血管の隆起を見ていると、目を凝らせばその流れさえも見えそうだと思った。

 明るくておおらかで、真っ直ぐな表情の下にある悲しい過去の記憶は、好奇心だけで覗いてはいけないもの。彼の中でずっと長い間磨かれてきた結晶は、硬そうに見えても触れれば崩れてしまいそうなもの。

 決して手に入らないものを求めてしまうのは、人間の本能に組み込まれた衝動なんだろうか。でも。決して手に入らないと決めつけるのも人間だ。

 私は奇跡を望んだ。ロックにもう一度会いたい。それは叶えられたから、もうそれ以上は望まない。

 死ぬはずだった私をあの日救ってくれたのが彼だったこと、それは私にとって幸福だったのか不幸だったのか、考えたところで意味はない。私に未来をくれた人。過去を掴もうとしている。そこは私が存在してはいけない場所。

 彼の行動の意味を、ずっと考えてきた。ようやく今ならわかる。痛いくらいに、わかってしまう。

 みんな、大切な誰かを守りたかっただけ。生きてほしかっただけ。ロックを否定したら、私は自分を否定してしまう。

 自分が今までしてきたことが全部正しかったなんて微塵も思っていない。自分の存在すら否定して、なかったことにしても構わないと思ったこともある。

 だけど、やっと受け入れることができた。だからこそ覚悟ができたのだ。

 そっと彼の腕を外して、滑るようにベッドを抜け出す。裸足で触れる床は冷たいけれど、不思議と心地好い。窓辺から、外を見る。

 濡れた町並には、ぼんやりとした街灯や窓の光の塊が陽炎みたいに浮かんで、弾けて、揺れていた。

 どこを見ていいのかわからなくなりそうだから、遠く波止場に見える大きい灯りだけを見ることにした。迷うことのないように。







 何日振りかで、陽が差す中で目覚めて、眩しさに目を細めた。目の前にセリスはいなかった。

 目線で部屋の中を探せば、格子窓の前に斜めに腰掛けるように彼女がいた。顔をは窓の外を向いていて、表情がわからない。

 窓からは明るい日差しが射して、彼女の金髪を泳ぐ魚のように光の粒が揺れていた。

 夢うつつで、俺は彼女の名前を呼んだんだろうか。セリスが振り向く。窓枠の額縁の中に描かれた絵のように、一瞬その空間が止まった気がした。照らす光が強すぎて、振り返った顔の半分は光にのまれて消えてしまいそうで、俺はふいにたまらなく不安になった。



「おはよう」

 呟いた言葉の形に薄く唇を開いたまま、セリスは俺を見ていた。その表情が読めなくて、胸騒ぎが強くなった。



 言葉少なに身支度をし、荷物をまとめ、俺たちは宿を後にした。宿泊費は前払いをしておいた。持ち合わせの現金には限りがあったので、いくつか手持ちであった宝石のひとつで。目の利く女主人なので、交渉は必要なかった。セリスは自分の分は支払うと頑なに主張したが俺は退けた。

 洗濯物を干していたのだろう、女中が籠を持って裏口から入ってきた。手うちわで顔を扇ぎながら、

「春が来たみたいに暖かい」

 そう言うと流しのほうへ消えていった。

 外へ出ると、冬の雨のあとの空気はぱきっと澄んでいた。確かに冬晴れを約束するような空だ。窓や扉を開け放っている家が多く見られた。ほとんど一週間ぶりの日の光と空気を取り込もうというのだろう。

 久々に腰に剣を帯びたセリスは昨日までよりどこか凛々しく、そしてどこか強張った表情をしていた。





 港に着いて、開いた格子模様の鉄のゲートをくぐったところで、それまで横を歩いていたセリスが歩みを止めた。

 俺は振り返った。

 セリスは一瞬だけ斜めに視線を泳がせると、真っ直ぐに俺を見た。

 永遠とも一瞬とも思える間があって、俺は言われぬ緊張を覚えた。セリスがようやく、唇を少し開いた。

「私は乗らないから」

 彼女の後にオレンジの光が燃え始めていた。でもその時、俺はそれが夕焼けなのか、朝焼けなのかわからなくなった。眩しくて目を細めるとセリスが消えてしまう気がした。

 我に返って、セリスの方を見た。泣き出しそうな顔だった。言葉の毅然とした響きの下に、僅かな震えを感じ取らずにはいられなかった。

 その声に、表情に、俺は彼女の決意を垣間見た。この数日間ずっと胸に秘めていたのだと知った途端、立っていられなくなりそうで、平衡を保つためにただその青い目を見ていた。縋るような思いで一歩近付くと、セリスは一歩退いた。それ以上は進むことを許さない見えない壁が聳えているようで、もしかしたらそういう魔法を張ったのかもしれないと思った。

 さっきの、窓辺に座る彼女の姿を思い出す。ああ、とやっと理解する。その時もう、彼女の中で俺は、死んだのだと。

 色んな思いが言葉になって頭に浮かんでは消えたけれど、何も言えなかった。どれも本心で、同時に無意味で、何よりセリスがそのどの言葉も望んでいないとわかったから。わかったけれど、唇のすぐ内側にある言葉を止めることはできなかった。

「俺はお前が好きだよ」

 セリスの目が見開かれた。迷子の子供のような目だった。彼女のために押しとどめるべきだったのか、考えてももう遅い。

 信じてもらえなくても。

 その頬に涙が流れたとき、光が一段と強く鉄の門を照らして、真ん中に立つ彼女を隠してしまいそうだった。

 それからセリスは俯いた。それは頷く仕草にも見えたけれど、俺の願望が見せた幻かもしれない。晴れているけど時折吹く風は冷たくて、赤くなった頬を隠すように彼女の髪が揺れた。セリスは口許を片手で覆った。

 それからゆっくりと顔を上げると、本当に少しだけ微笑んだ。今まで見た中で一番綺麗で、一番残酷な顔だった。













 どうやってそうしたのかわからない。だけど私の足は、来た道を辿ってもう一度宿へ戻った。

 入口の机にかけていた女主人は私の姿を認めると少しだけ眉を上げたけれど、ペンを置いて用件を尋ねるように私を見た。

 私は数歩近付いて、彼女の前に自分一人分の宿泊費を置いた。

「お代はいただいているけど」

 訝しげな響きはなく、淡々と彼女はそう言った。

「借りは作りたくないので」 

 秘密はここへ置いていこう。この人は、きっと厭わずそうさせてくれる気がした。

 彼女は黙って私の顔をじっと見つめた。それから少しだけ微笑んで頷くと、

「おつりは直接渡しましょうか」

 そう言った。

 彼は、いつかここに来るだろうか。

 私は答えずに、会釈してその場をあとにした。

 宿の扉を後ろ手に閉めて見上げると、本当に嵐の予感の一片もない空があった。

 フェニックスの奇跡は起きるだろうか。彼女の魂は、また肉体を得るだろうか。それは誰にもわからない。

 でも私は奇跡の存在を知っている。私が生きていること自体が、とんでもない奇跡だから。

 たくさんの人が私を生かしてくれた。もらった命は、精一杯生きよう。だけどそれに縛られることはしない、してはいけない。

 私は仲間たちを探そう。そうすることしか前に進む方法が、今は思いつかない。

 一度は止まったはずの涙が、流れているのに気が付いた。もうずっとそうだったのかもしれない。泣くはずじゃなかったのに、思い描いていた通りにはいかない。

 涙が光るから、運河に張った氷も、庇から垂れる氷柱の滴も、薄くかかった雲も、全部が光って見えた。優しい雨に打たれているような気分になった。

 これでいい。今すぐにはそう思えなくてもきっと、そうなる日が来る。そうなるまで涙を流して、そう言い続ければいい。だから今は、これでいい。 












 この場所に立つのはいつ振りなんだろう。コーリンゲンの街のはずれ。緩やかな丘を登り切り、崖沿いに建てられた柵の向こうには深い森の谷。

 斜面を谷の方へ下っていけば、いつかの夏、レイチェルと二人水に足をつけて涼んだ源流がある。蝉の声と、木立からレースのように漏れる光。

 この場所には、レイチェルとの思い出が漂っている。

 その景色を思い浮かべればいつでもそこにあったレイチェルの姿。もう、求めることはない。





 コーリンゲンの市街からはずれ、途中から舗装の道もなくなり、木の根が太く張り出した緩やかな山道を登っていくと、診療所の木のゲートが見える。

 丘の上の家は、かつて診療所だった。レイチェルが眠る場所。谷から昇ってくる霧はいっそう濃く、その家が隠す秘密を守っているようだった。吐く息の白さも霧で見えない。あの街よりもずっと温かく、コーリンゲンの冬は終わりが近いのがわかった。

 扉をノックしたが、返事はない。鍵はかかっていなかったので、扉はそのまま開いた。

 家主の名前を呼んだが、返事はない。俺は床を軋ませながら中に入った。

 診療室を覗きもう一度呼びかけたが、やはり返事はない。診療室を出て左に向かうと、廊下の突き当たりに扉がある。廊下の壁にかかる静物画の真下の床板を一枚はずすと、鍵は変わらずそこにあった。廊下の扉を開くと、地下に向かう階段がある。

 階段を下りさらに鍵のかかった扉を開くと、そこに変わらず横たわるレイチェル。時間が止まったまま動かないレイチェル。

 胸のポケットを押さえ、そこにあることを確認する。

 だけど、フェニックスとレイチェル、二つを繋ぐにはどうすればいい?目覚めに必要な呪文は知らない。

 ──レイチェル。

 動かない彼女に呼びかける。

 ──どうすればいい?

 誰にともなく問いかけたように聞こえた。

 胸の前で組まれたレイチェルの手に、フェニックスを握らせる。奇跡は、起きない。

 俺はベッドに背を凭れて床に座り、首を垂れた。

 胸にたまった空気を追い出すように深く息を吐いて、地下室の天井を仰ぎ見た時だった。

 肩にそっと手が触れて、息が止まりそうになった。胸の鼓動がうるさいくらいに鳴るのを感じながら、俺は振り向いた。

 寝そべったまま顔をこちらに向けて微笑む、彼女がいた。レイチェルは、微笑っていた。彼女の手の中のその石は、淡く陽炎のように輝いていた。

 ──ロック、大人になっちゃったね。

 唇が確かに動いて、もう忘れそうになっていた懐かしい声でそう言った。頬も唇も温かい色を取り戻していた。波打った豊かな髪と同じ色の垂れた目許、それを囲う意志の強い眉。昔のままの、記憶のままの彼女だった。

 俺は彼女の手を握った。縋るように。乾いた温かい手だった。指がそっと握り返してきた。

 あまり時間がない、だから聞いてと言った。俺は黙って頷いた。目にはもう涙が湧いてきて、レイチェルの顔が滲んでしまいそうだった。

 レイチェルは言った。死んだ人間を生き返らせる秘宝なんてないと。フェニックスの魔法を、少しだけ借りているのだと。

 レイチェルは穏やかに、だけど意志を感じさせる声で言い募った。自分のせいで俺が苦しむのが辛い。そんなの一度も望んだことはないと。

 涙で、握った彼女の手が濡れた。

 最後にお願いがあると言った。俺は頷いた。彼女の顔は優しかった。

 ──自分の心に素直に生きてね。

 子供を諭す母親のような声で言った。

 ──わかるよね?

 俺は嗚咽をこらえながらただ何度も頷いた。レイチェルは満足げに、穏やかに微笑んだ。そして指を開くと、手の中のフェニックスをそっと俺に握らせた。石は、手と同じ温もりがあった。

 それから、笑顔はそのままに、眠るように目を閉じた。それがもう二度と開かれることがないことを、俺は理解した。







 谷の木々の隙間を泳いでいた霧はもう、どこかに流れて消えていた。目線を延ばした先の地平線から、明るく光りが見え始めていた。その光はみるみるうちに上昇して、広がる炎のようにあっという間に俺の目の前を覆って、その眩しさに何故かまた涙が出た。

 太陽みたいに眩しかった彼女。俺の中の彼女の記憶。レイチェルと俺がいる、絵に描いたようなノスタルジックで愛おしい光景。

 俺はその瞬間、確かにその景色の中にいた。遠い点になっていた記憶をレイチェルは蘇らせてくれた。そして永遠に閉ざした。

 レイチェルの人生を奪ってしまったことへの罪悪感を、愛情だと言い聞かせて誤魔化そうとしたんだ。自分の中でだんだんと朧になっていくのが恐くて、繋ぎ止めようとした。

 自分を恥じる思いと、全てを理解して背中を押してくれたレイチェルの言葉に、涙が流れるのを止められない。

 これで本当に終わったんだと知った。本当は、もっとずっと前に終わっていたってことも、そしてそれを俺はずっと知っていたってことも。




 どれくらいその場にいたのかわからない。朝焼けが燃えたあとの空気は澄んでいて、太陽は谷を穏やかに照らしていた。立ち上がると、脚に痺れが走ったので、拳で軽く押した。

「行くか」

 セリスの顔が浮かんでくる。ひとつ消えてはまた別の表情が、消えずに脳裏に現れ続ける。声が響いてくる。

 俺はまた囚われているんだと気付く。これはもう性分だな、と自分で可笑しくなる。だけどセリスがいるのは過去ではなくて今であり、未来だ。今生きている彼女に、どうしようもなく会いたい。

 もう一度振り返って谷を見れば、朝焼けの残像が見えた。その光に背を向けて、俺は山道の入口に繋がる門を出た。













(2016/06/26)

長らくよんでいただいてありがとうございましたー。いわゆる別離ものなのかな…。でもこれ、どうしてもいつか書きたかったものです。明るい未来に向かうためのステップなので、決して暗い話ではないと自分では思ってるんですけど、だ、大丈夫ですかね?? この後ちゃんとロックはセリス(と仲間たち)を見つけて、よろしくやってくれてるはずです。

ご興味あれば、あとがきどうぞー

*続きをよむ*







Worksへ戻る
Topへ戻る

inserted by FC2 system