庭
学校が早く終わる日は、わたしは無条件で嬉しくなる。
家に帰る足取りも軽くなる。
スカートの裾がカーテンのように柔らかく揺れる。
歩き慣れた道を進みながら空を見上げるとうろこ雲がかかっていて、その向こうから太陽の光が透けている。
雲は空に散った白い花びらみたいだ。
ニブルヘイムの短い夏もそろそろ終わろうとしている。
今日の午後はなにをして過ごそうか考えながら歩いていたら、いつのまにか家まで来ていた。
家に着いたら郵便受けのチェック、これがわたしのいつものパターンだ。
今日は、月刊ニブルヘイム便りと、手紙が二通。
ひとつはパパ宛てのダイレクトメール、そしてもうひとつを見てわたしは「あれ…」とつぶやいた。
宛名がお隣の名前になっていた。
さて、どうしようか。
ポストに入れておこうか。
でも人の家のポストを勝手に開けるのは失礼じゃないかしら。
おばさんは今日もうポストを見たのかしら。
一通だけ新しく入っていたら変に思わないだろうか。
おばさんは家にいるだろうか。
いるなら直接渡せばいいだろうし…
たかが手紙一通を巡ってぐるぐるとしていた頭がふと停止する。
お隣というのはもちろん、ストライフ家のことだ。
クラウドが元気にしてるのか、教えてもらうチャンスかもしれない。
クラウドがミッドガルに発ってから、もう数ヶ月が過ぎていた。
他にも村を出て行った男の子たちは何人かいる。
そのうちの一人はずいぶん筆まめで、毎月一通手紙が届く。
クラウドからの手紙は、ない。
自分のお母さんには、クラウドは手紙を書いてるのだろうか。
一人息子が遠くに行ってしまって、おばさんは寂しいはずだから。
ふと例の迷子の手紙に目を戻す。
差出人の名前と住所は、クラウドでもなければミッドガルでもなかった。
電話で話したりするんだろうか。
クラウドはソルジャーになるために頑張ってるだろうか。
ホームシックにはなっていないだろうか。
知りたいことは山ほどあった。
でも、手紙を届けるだけなのにクラウドのこと訊くのは変じゃないかしら。
それに、お隣同士だし見かければ挨拶くらいはするけれど、クラウドのおばさんとちゃんと話すのは初めてだ。
そんなに上手く会話が運ぶのかもわからない。
だんだん弱気になってきた。
ううん、なにをそんなに心配してるの。
元気にしてる?って訊くくらい、別に不自然じゃないじゃない。お隣さんなんだから。
よし、と小さく声に出して、手紙を両手で握り締めて、覚悟を決めた。
お隣だから当然だけど、クラウドの家にはあっという間に着いた。
玄関の前まで来ると、なぜか少し緊張して、チャイムを鳴らす前に髪をととのえる。
ついてもいないスカートの皺を手でのばす。
もう一度小さくよし、と言ってみる。勇気が出るおまじないみたいだ。
呼び鈴に手を伸ばす。人差し指で軽く触れる。体ごと押し出すように力を込める。
室内で呼び鈴の音が響く音がした。
人の気配が作る音は聞こえてこない。
おばさん、いないのかしら。
緊張が解けてほっとすると同時に、なんだか空振りした気分でがっかりしてしまう。
やっぱりポストに入れておこうか、もう一度だけ呼び鈴を鳴らそうか。
またぐるぐると考え始めていると、ドアノブが動く金属音がかすかに聞こえた。
ゆっくりとドアが開く。
あの、と言う前に、クラウドのお母さんが人差し指を唇にあてて「しーっ」とささやいた。
「静かに。ゆっくり入ってきて。」
ささやき声のままおばさんがわたしを導く。
少しためらったが、言われたとおりに中に入る。
足音を立てないよう歩くと忍び足になる。
お邪魔します、と言うタイミングを逃してしまった。
「ゆっくりね。こっちいらっしゃい。」
何事なのかさっぱり解らず、戸惑いながらもついて行くと、ダイニングテーブルの奥の窓まで誘導された。
「ほら、あそこ、見て。」
開かれた窓の先を指差しながら、やっぱりささやき声のままおばさんが言った。
人差し指と視線を辿って外を見る。
一瞬何のことを言っているのかわからずに視線をさまよわせていると、二メートルくらい先、庭のフェンスに絡まるハニーサックルのまわりに緑色の小さな動く影を捉えた。
それは小さな鳥だった。
白いハニーサックルの花の中心に、針のように細いくちばしを挿している。
緑色の小さな体はまるで貴重な宝石のよう。
呼吸も瞬きも忘れて見入っていたような気がする。
一瞬でも目を瞑ればその隙に消えてしまいそうな、小さな妖精のようだった。
「あれって、ハミングバード?」
おばさんに倣って、極力小さな声で訊いてみる。
「そう。」
「全然羽が見えない…」
「ホバリングって言うの。物凄い高速で羽ばたきしながら、空中で静止して、ああやって蜜を吸うのよ。」
二人とも目線はその小さな生き物から逸らさないまま、ささやくように会話した。
「疲れないのかな。」
「そうねえ。食事するのも一仕事ね。」
ご飯を食べるときもああやって羽ばたいているんだ。
ゆっくり食卓で座って食べる人間とは大違いだ。
あんなに小さくて儚げなのに、なんて頼もしいんだろう。
「あっ」
小さな生き物は、くちばしを花から離して、『ホバリング』したまま少し後退すると、体を浮上させてそのまま飛び去ってしまった。
「行っちゃった…」
夢中になって読んでいた本が終わってしまったときのような、名残惜しい気持ちがした。
「わたし、本物見るの初めてだったの。」
「昔はもっといたんだけどね。この土地から少しずつ減ってしまってるのかしら。」
わたしはさっきまでの癖で声を落としてそう言ったことに、おばさんの平常のボリュームの返事で気がついた。
もうひとつ、今まで封印されていた嗅覚が甦って、ハニーサックルの甘い香りが届いた。
あのハミングバードも、この香りに誘われたのかもしれない。
同時に夢から覚めるように、自分の居場所を思い出した。
そうだ、ここはクラウドの家だった。
クラウドの家に入るのは初めてだった。
人の家の中というのは物珍しくて、ついきょろきょろと観察したくなる。
クラウドの家だと思うとなおさらだ。
でも、お行儀が悪い子だと思われたら嫌だから、やめておいた。
それでも目に入るものは勝手に入ってくる。
ダイニングテーブルの上に、新聞と大きさの違う封筒をいくつか見つけた。
「あ、そうだ。おばさん、これ。」
すっかり忘れ去られていた本来の目的である郵便物を差し出す。
「うちのポストに間違って届いてたの。」
「あら、ほんと?」
宛名を確認しておばさんが続ける。
「ほんとね。わざわざ持ってきてくれたのね。ありがとう。」
どういたしまして、というかわりに首を軽く横に振る。
――クラウド、元気にしてる?
言いたい言葉が喉もとでさまよっている。
なかなか最後のひと押しができない。
でもなにも用事がないならいつまでもここにいる訳にはいかない。
まただ、本日三度目のぐるぐるだ。
「あの子も手紙くらいくれればいいのに。」
心の中を読まれたのかと思いどきっとする。
おばさんはそう言いつつも微笑んでいて、うちの子はほんとにしょうがない、とでも言いたそう。
おばさんのほうからクラウドの話題を振ってくれて、内心救われた思いがする。
「おばさん、クラウド、元気に、してる?」
言葉が切れ切れになってしまった。さらっと言うはずだったのに。
「むこうに言ったばかりの頃は何度か電話してくれたんだけどね。最近はさっぱりよ。」
「そうなんだ…」
なんだか自分のことみたいに寂しくなる。
「でも連絡がないってことは、きっと元気にしてるんでしょ。」
おばさんはそう言って朗らかに笑った。
そんな顔を見ていると、さっきの寂しさも少しだけ和らいだ気がした。
「うん。元気なら、いいの。」
そうだ、元気ならいい。
おばさんはまた窓辺に視線を戻していた。
眩しそうに目を細める横顔を見る。
クラウドと同じ、色素の薄い繊細な金色の髪が光を浴びてきれいだった。
「庭の梨が落ちてきたでしょう。」
「え?」
おばさんの見ている先には、黄緑色のくびれた梨の実が地面に落ちていくつも転がっていた。
上を見ると、まだ落ちていない実と濃い緑の葉っぱが茂る梨の木。
フェンスの上にはいつの間にか違う鳥。
小さいけれど、いろんな生き物が生きている、暖かくて力強い庭。
クラウドも、きっとこの庭と一緒に育ってきたんだ。
「毎年この時期にあれでプリザーブを作るの。今年はあの子がいないから仕事が増えるわ。」
そう言ったおばさんの横顔は、やっぱり少し寂しそうだった。
なにか気の利いたことを言えないか思案していると、いつのまにか笑顔に戻っているおばさんが私を見ながら続ける。
「ティファちゃんが手伝ってくれると助かるんだけどね。」
それは予想外で、だけど嬉しい申し出だった。
「いいの?」
「ティファちゃんが良ければね。おばさん助かるわ。」
「うん!」
思わず声が弾む。
「おばさん、また来るから!」
外に出ると、うろこ雲に覆われていた太陽が少し顔を出していた。
夏の終わり、秋の始まりの空気を吸い込みながら、さっきの出来事を頭の中で再生する。
エメラルド色のハミングバード。
世界が大事に隠していた宝物をひとつ見つけたような気分だ。
ハニーサックルの甘い香り。
初めて入ったクラウドの家。
きっとあの迷子の手紙のお導きだったんだ。
クラウドのこと訊いたりして、変なふうに思われなかったかな。
思い出したらなんだかやけに照れくさい。
でも、なんだかすごく楽しかった。
ハミングバードは私も何度か本物見たことがあるんですけど、小さくて繊細でうっとりしちゃいます。