秘密
男の子のママは、ガールフレンドの最大の敵──
いくつかある偉大なるミレイユ婆様の教えのひとつ。
それの意味するところを、わたしはずっと考えている。ただし、彼の本当のママはもういない。けれども、似たような人が、いるわけだ。
目の前のキッチンで小気味よくナイフの音を響かせているその人。
カウンターの席に陣取るわたしから、その姿はよく見える。前にヤケになってばかみたいに食べた時以来、この席にひとりで座るのは初めてだ。
ここらでその人を知らない人はいない、セブンスヘヴンのティファ。美人で、スタイルが良くて、肝が据わってて、優しい彼女は、わたしも含めて多くの人の憧れだ。
脚自慢を自負するわたしだけど、ティファの脚も見事なものだ。今はキッチンに隠れていて見えないけれど。腕もそうなんだけれど、細くて華奢なのに、程よく締まってる印象。箱入り娘のそれとは違う。小さい頃にちょっとだけ格闘技習ってたんだ、とティファは前に教えてくれた。
でも憧れっていうのは、特に同性に抱くそれっていうのは、尊敬と嫉妬の間を行き来するじつに微妙な感情だ。途中まで落ちた砂時計を、またひっくり返すみたいに。行きつ戻りつ。女神のようにひたすらに純粋に崇めるのは、生身の相手にはちょっと無理だ。
彼女は年齢はわたしより少しだけお姉さんだ。言うまでもなく、ティファはエヴァンのママではない。ついでに言うと、このうちの二人の子どもも、ティファの本当の子どもではないらしい。いろいろ事情があるらしい。
だけどエヴァンがティファに向ける目は、母か姉のような存在を慕う目のように見えて、それって、私には一生向けられない感情だ。絶対。
それは恋人に向く感情とは違うのはわかってる。そしてエヴァンのそれは私に向いてくれていて、それは嘘偽りのないもの。それもわかってる。
だから競うような気持ちになるのはそもそもお門違いなんだけど……それは頭ではわかっているし、別にふたりを勘ぐっているとかでは毛頭ない。ティファにはクラウドがいるし、エヴァンなんてひよっこをティファは相手にしないのはわかってる。それは100パーセントだ。
それに、ひとりとちゃんと付き合ってたって、あの人可愛い、きれい、素敵、かっこいいなんて思うのは当たり前。わたしだってあるもの。
ただ、そういうのを抜きにしても、ティファや、もしかしたら他の誰かが、エヴァンの中に喚起できる感情を、わたしもしたいと思うだけ。
そう思うのはそんなに贅沢なんでしょうか。
将来、デンゼルの彼女になる子は、苦労するかもね。
見ず知らずのその子に同情する。
「どうしたの、盛大なため息」
盛大なため息をついたらしいわたしにティファは言う。
「いろいろと思うところあるわけですよ」
わざと仰々しい口調でこたえると、そうですか、とティファは微笑む。
「ティファはね」
噛んでいたストローから口を離すと、私は訊く。
「クラウドのこと、もう嫌い、うんざりって思うことある?」
笑って、ティファは肩を竦める。
「それはもう」
「ふーん」
わたしは両手で頬を抱えるように、カウンターに頬杖をつく。寛大で全てを受け容れるような女神的な印象のティファでさえ、そう感じることがあるんだ。
「喧嘩でもしたの?」
「まあ、喧嘩、かな」
ままならないなあ。そう思いながら、またわざとらしくため息をつく。ちなみに、エヴァンとの喧嘩の理由は、ティファってわけではない。もっと些細な、じつにくだらいないこと。
「キリエなら大丈夫だよ」
言いながらグラスにアイスコーヒーを足してくれるティファに、わたしは顔を上げて目を向ける。
「スパっと言うでしょ、なにごとも」
「たまに、それがいけないのかな、って思うことある」
「痛いところもたまに突かなきゃ、気付かないんじゃないかな、男の人って」
「そういうこと、ティファもある?」
訊くと、彼女はうなずく。
「言ってから、あーあ、言っちゃったって思うこともあるけど」
わたしは続きの言葉を待つ。
「そういうのを重ねていくうちに、相手のことをもっとわかっていくし、時々そういう感情をぶつけることで、相手も自分のことをわかっていくし。そういうのが増えていくのかなあって思うよ、二人の間に」
そういうものかな。
あの時、件のヤケ食いの日のことをふと思い出す。わたしに言わなかったことをティファには話していたことへの、しょうもない嫉妬。あの時と同じカウンターの席で交わす、女同士の秘密の会話。
かさが増えたグラスに、ガムシロップとミルクを交互に足していく。
──男の子のママは、ガールフレンドの最大の敵、だけど最大の味方にもなる。
氷を避けるようにコーヒーの海に沈んでいくその様子を見ながら、その意味が少しだけわかったような気がしてくる。
「で、仲直りの目処はたちそう?」
うーん、と唸って、わたしはグラスをストローでひとまぜする。噛んだ跡で先端はでこぼこしている。
「あいつは自分からはできないんだよ。かといってわたしも我慢できるたちじゃないから、結局きっかけ作っちゃう」
「歯痒いね」
「もうなんでわたしばっかり、って思う」
「わかるよ」
「ままならない、ままならない」
私たちは同時に肩を竦めた。
店の扉が開く音が背後からして、微かな風が吹く。
いらっしゃいませ、と言いかけて、「あ」とティファは小さく言う。それから視線をスライドさせて、私に微笑みかける。
その意味を、わたしはすぐに理解する。