火のないところの煙
コーリンゲンで用を済ませた頃には、夕方に差し掛かっていた。そのまま逗留する選択肢もあったが、次の町まで今日のうちに向かってしまおうという誰かの提案に、皆同意した。余力があるなら可能な限り先を急ごう、と別の誰かが言い足し、やはり皆同意した。無論、先に進むことよりもむしろこの村に留まることを避けることが核心だということも、皆が解っていた。
そうして数時間ほど南下した先の小さな町に辿り着くと、そこで宿をとることにした。食事や明日からの計画を話し合い、各人が個室へ散った後、セリスは二階のホールからバルコニーに出て、手すりに凭れて何気なく空を見上げた。
紺碧の空に星が無数に散っていた。こんな風に夜空を眺めるなんて、いつぶりだろうと考えた。海までは距離があったが、空気の中に潮を気配を感じ取れた。目を閉じて規則的に響く波の音に耳を澄ますと、自分の血潮を聞いているようだと感じた。申し分のない穏やかな夜のように思われた。
だけどそんな穏やかさとは裏腹の、荒れる渦のような感情を持て余している自分がいた。精神統一は得意なはずなのに、いつものやり方を試しても上手くいかない。そんな自分に苛立ちを覚えた。まったく悪循環だ、と誰にともなく悪態をついた。
手すりに頬杖をついて眼下の町並を眺めた。こぢんまりとした平和な町だ。時折、階下の酒場から陽気な笑い声が漏れてくる。
ふと背後の扉が開いて、落ち着いた足音が近付いてきた。知っている気配だった。
闖入者はセリスの隣に立った。暗がりの中にその人の明るい金髪が揺れるのをセリスは感じた。
「いいかな?」
声の主は、指に挟んだ葉巻をセリスに示して訊いた。
セリスはちらりと目線を走らせると、興味がないとでも言うように、軽く首を傾げて答えた。
「国王陛下も不摂生なさるのね」
「不摂生も人生の味わいだよ」
エドガーは優雅な口調で言い、同じように優雅な手つきで葉巻の先に火を灯す。
海の方に視線を戻していたセリスは視界の隅にぼんやりと、赤い炎の点を捉えた。火薬の匂いが香った。やがて、葉巻の独特の、鼻腔から内臓まで蹂躙するような強い香りが立ち上った。
「どう思う?」
一口目の煙をゆっくりと気怠そうに吐き終えたところで、エドガーは口を開く。
セリスは僅かに眉を顰めて、視線は前を見据えたまま、短く返す。
「何が?」
「またまた」
「……」
セリスにはもちろん、エドガーの意図するところはわかっている。が、この人はどうしていちいち、こちらの反応を探るような聞き方をするのだろう、と苦々しく思い、返事を躊躇った。
そのまま暫く無言の抵抗を続けた。だけど微かに聞こえる波の音さえ、自分を急かしているような気がし始めて、だんだんと苦痛になってきた。やがて、観念したように溜息を吐いた。
「あなたの忠告は、このことだったんだ」
自分から核心に触れるのは癪だった。だけど同時に、昼間の出来事以来ずっと、もやもやとした感覚が晴れない胸の内を、誰かに明かしたいという気持ちもセリスにはあった。図らずもその相手がエドガーだということは、なんだか皮肉だ、とセリスは思った。
「まあ本気じゃないよ。簡単にロックに惚れられたんじゃ、立場がないからね」
エドガーはからかうような調子で言う。
セリスは呆れたようにまた息を漏らす。この人の軽口にはだいぶ慣れたけど、どの程度真剣に取れば良いのか、線引きが難しい、とセリスは思う。
「あなた、ロックとは長いんでしょう」
「まあね」
軽く返事をして、エドガーはそのまま続けた。
「付き合いの長い友人だからといって、お互いの全てを肯定する必要はないと思っているけど」
その声は柔らかいけれど、その綿の下に明らかに、厳しさと言うか、尖った冷静さがあった。
意外と冷めているんだわ、とセリスは思う。だけどその客観性に裏打ちされた冷酷さが、不思議と嫌ではなかった。
「彼女の亡骸を…ってこと?」
慎重にそう訊く。
エドガーは返事をしなかった。かわりに煙を吹かしている。海の方を見ているので、セリスには彼の表情は見えなかったが、沈黙は肯定なのだろう、と思う。
「…愛してたのね」
呟くように言う。誰が誰を、と明示する必要はなかった。
暫くどちらも無言だった。セリスにはそれが苦しかった。酸素を求めて空気を吸い込むと、葉巻の香りに侵された空気が肺に充満して、かえって息苦しくなった。
苦しさに耐えかねそうになったところで、助け舟を出すように、エドガーがやっと口を開いた。
「過去の感情はともかくとして、あいつのとった行動はどうなのかな」
まただ。尖鋭な刃物を、真綿でくるんだような言い方、とセリスは思う。この人は、はっきりそうとは言わないけれど、はっきりとロックの行動を、件の行動を、是としてはいないのだ。
「愛してないと、できないじゃない」
巧みに自分ではそうとは言わないのに、先程からこちらを試すような言い方をするエドガーに少し苛立ち、それを含んだ口調になってしまった。でもそれではますます彼の遣り口に嵌っているようで、思うつぼだ、と自分に対してもセリスは苛立った。
「それが本当に愛ゆえの行動であるとするならば、ね」
エドガーは余裕の姿勢を崩さないままそう言った。
「……」
セリスは少し考えた。
ロックの行動は、愛情の発露したものではない?
「あなたはそうは思わないの?」
「俺の考えは重要じゃない」
一人称が俺に変わったことにセリスは気付いた。だけど、そこに触れることはしなかった。
「それって、ずるいと思う」
隣でエドガーが小さく笑った気配がした。
「少なくとも、愛があったら俺はしないかな」
「……」
セリスはまた考えた。エドガーの考えが正しいとしても、かといってロックの行動は愛の不在ゆえ、という結論にはならない。では愛の形が、違うというのだろうか。
「あなたの言う愛って?」
セリスは素直に疑問を口にした。今度は彼の方に顔を向けた。
今度はエドガーが少し考えている様子だった。形の良い端正な鼻梁の横顔を、葉巻の先から昇る煙が霞めた。
「綺麗ごとのようだけど。利己的なのは愛じゃない」
エドガーの言葉の響きは、静かで真剣味があった。
誰の愛が利己的だと言っているのだろう。ロックの?利己的なのは愛じゃないとすれば、利他的ならばいいということ?セリスは逡巡し、戸惑った。だんだん、説法でも聞いているような気がしてきた。
「まああいつは、正義感というか、責任感が強いんだろうね。良くも悪くも」
言い終えると同時に吐き出した煙には微かな溜息が混じっていた。諦めと、揶揄を感じた。エドガーはさらに続けた。
「だけど、自分のせいでこうなった、なんて本当は図々しい考えなんじゃない?自分のおかげで良き事が起こった、と考えるのと大差ないんだ。この世で起こる多くのことは、誰のせいでも誰のおかげでもないんだよ。本当は」
私論だけどね、と最後に言い足して、エドガーは少し笑った。
セリスは、エドガーの言い分に妙に納得した。だけど、まだ何割か首肯しかねる部分があり、それを口にした。
「だけど、自分のせいで、っていう後悔があるから、成長することだってあるんじゃない?」
「そうだね、その通り」
エドガーは頷いて、続けた。
「だけど、自分の過失を償うとすれば、過去を変えようとすることじゃなくて、その後をどうやって生きるべきかを考えて行動することによって、じゃないかなあ」
そうかもしれない、とまたセリスは思った。それ以上は反論する言葉は出てこなかった。
再度の沈黙があったが、今度は息の詰まるものではなかった。それから、下の酒場から愉しげに騒ぎ立てながら男たちが出てきた。その声に紛れて、エドガーがぽつりと何かを呟いたのをセリスは捉えたが、言葉まではわからなかった。聞き返そうかと思ったが、煙を吐きながら遠くを見ているエドガーの満足げな表情に、なんとなく聞く気が失せた。かわりに、
「なんで、私にこんな話してるの?」
そう訊いた。
「どうしてだろうね」
いつものとぼけた調子をまた声に戻して、エドガーは言う。
「これも牽制?」
セリスの問いにエドガーは肩を竦める仕草をする。
「うーん、どうかな。君が傷つくのを見たくないからというなら、もっとはっきりそう言うよ」
そうだろうか。この人のことだから、暗にほのめかすだけじゃないだろうか、とセリスは訝った。エドガーは続けた。
「俺は女性の味方だからね。ご婦人方が傷つくのはあまり見たくないんだけど。とはいえ傷つくのもまた人生の味わい。そうやって魅力を増していくんじゃない?男でも女でも」
それって、私に傷つけって言っているんだろうか、とセリスは思い、眉を顰めた。この人結局誰の味方なんだろう、とも。でもそのことよりも、興味を引かれることがあった。
「あなたも傷ついたことがあるの?」
セリスはエドガーを見て訊いた。
「それはもちろん」
エドガーは、にっこりと端正な微笑をセリスに向けた。
「ま、どう転んでも、私は君の味方だよ」
「…光栄です」
セリスは真似して肩を竦めた。そして、苦笑ではあったが、笑顔を見せた。
エドガーはまた、余裕の笑みを返した。
この人は大人だな、とセリスは素直に認めたが、本人に伝えるのはやっぱり癪だったので、再度海に目を逸らした。
遠くに聞こえる波の音が、さっきより何故か心地好く感じられた。
葉巻の香りは、いつしか夜の空気に溶け込み、薄まり、煙と共に散って消えた。