おまじない



 時計は見ずに外に出た。二時とか、それくらいだろう。どうせ眠れないので、気にする意味もない。

 普通の民家に見えるような質素な宿の玄関をそっと出て、そこから少し傾斜のあるアプローチを下り、沢を見下ろす柵のところでティファは止まった。沢と言っても、雨が降ったついでにできたようなごくささやかな小川が、音もなく流れている。

 柵に手をかけて、ぼうっと夜の大気を眺めた。きれいな夜の空だった。だけど、きれい、以外に何も感じない。きれいという言葉が、ぽっかりあいた暗い穴のように空虚に感じた。

 多くのことがありすぎた一日だった。ものすごい速さの水の流れが幾筋も頭の中を流れているようだった。疲れきっていて、眠りたいのに、その急峻な流れが止まらなくて眠らせてくれない。クラウドの様子が少しおかしいことは、ずっと感じていた。でも、今日のことは……

 ティファは首を振った。考えたくなかった。せめて空を見ていよう。空虚な気持ちでいられるのならその方がましだ。

 背後に軽い足音が聞こえた。ティファは振り返らずに待ったが、誰なのかは察しがついた。

「眠れない?」

 自明のことだとわかりながら、エアリスは訊いた。ティファは肩を竦めた。

「エアリス、大丈夫?」

 ティファの言葉にエアリスの胸が痛んだ。不安なのはティファも同じ。

「うん」

 短く頷いた。

 ティファの隣に並んで、眼下の細い流れを眺めた。静かな夜だった。耳を澄ますと、小川の音がさらさらと漂っているような気がした。

 こんなに穏やかなのになあ。エアリスは思ったが、口にはしなかった。かわりに、後ろ手に持っていたものを、ティファの方に差し出した。

 ふいに、エアリスががさがさと音をたてて何かを差しのべたので、ティファは目を向けた。

「お腹なんて空かない?でも食べなくちゃ」

 エアリスがずいとそれをもう一度差し出すので、ティファは少し笑ってそこに手を入れた。

 内側がワックス塗りになった薄茶色の小さな紙袋の中には、ドライフルーツとナッツが数種類入っていた。頬張るとクランベリーの酸っぱさが、耳と顎の付け根のあたりに不思議な刺激を伝えてじわりとした。続いてカシューナッツを口に入れて噛んだ。油分の多い柔らかな風味が、酸味を覆ってまるくした。

 エアリスもかりかりと頬張っている音が隣から聞こえた。

 しばらくお互いに黙っていると、エアリスがそっとティファの肘のあたりに手を添えた。ティファはその手に目を遣った。

「擦ったのかな?」

 防具を外した剥き出しのティファの白い腕は、いつもより無防備で頼りなく、だけど不思議な、生きている人間の気配を暗がりの中で強く放っているように、エアリスには見えた。

「ほんとだ。気がつかなかった」

 ティファはその擦り傷を目にしながら言った。

「痛くない?」

「…大丈夫」

 エアリスは微笑んだ。それから秘密を囁くような小さな声で、

「元気になーれ」

 と、傷をそっと撫でた。

「小さい頃。こういうおまじない、しなかった?」

「…したね」

 ティファは頷いた。

「お母さんがしてくれた」

「わたしも」

 エアリスは穏やかに微笑んで返した。

 小さい頃、あれはいくつくらいだっただろうか。ティファは記憶を探った。母親が生きていた頃。その思い出があるくらいの年齢の頃。

 ニブルヘイムの寒い冬、もこもことコートを着込んでブーツを履いて、雪の降る中を飽きもせずにはしゃいでいた。そのうち冷たさで足の感覚がなくなって、それが何故だかひどく怖くなって、母親に飛びついて「足がどこかにいっちゃったよ」と言った。母親は自分を抱えて家の中に運ぶと、ストーブの前でブーツと靴下を脱がせて、手で両足を包みながら「大丈夫、もうあったかいから、戻っておいで。ティファも、足に戻っておいでって、言ってあげて」と言ったのだった。

 その柔らかい手の感触と、その声の響きが、ずっと忘れていた記憶が蘇った。

 元気になーれ。そう言ったエアリスの声と重なった。

「でも、今のはエアリスの魔法でしょ?」

 ティファはもう一度頷いてから訊いた。

 うーん。エアリスは顎に手を当てて、首を傾げた。その動きがなんだか大袈裟で、少しおかしかったのか、ティファは笑った。その気配がエアリスには嬉しかった。

「でもきっと、同じことだよ」

 言ってティファを改めて見ると、不思議そうに首を軽く傾げていた。

 その表情を見ていると、エアリスの胸の中に泡のようにぶくぶくと湧いてきた思いが、形を成して口を割った。

「小さい頃、自分ではなんにもできなくて、早く大人になりたいなあって思ってた」

 そこで一度止まった。大きく息を吸って、吐いた。

「でも、大人になると、色んなこと考えないといけなくて、それも大変」

 そこまで言って、もう言葉に涙が帯び始めていることを自覚した。

「くだらないことで、喜んだり、怒ったり、ずっとしてたいよね」

「すれば、いいんじゃない」

 ティファの応じる声に、少しの躊躇いをエアリスは感じた。

「楽しいことも考えるの、でしょ?」

「うん…」

 首を何度も縦に振りながら零れた自分の声が、震えているのがわかった。

「全部終わったら、クラウドほっといて、旅行したり、お芝居みたり、うちの庭でお茶飲んだり、したいよね」

 エアリスは努めて明るく言おうとしているのがティファにはわかった。

「できるよ」

 自分でも意外な語気の強さをもって、言葉がティファの口を出た。

 どうして、できないみたいに言うの?そう言いたかったが、言えなかった。

 靄がかかったような思いを否定するように、素っ気ないくらいの強さだけが短い言葉に滲んでいた。

 ──どうして、できないことを知っているような言い方するの?

 エアリスはいつもそうなのだ。明るくて優しい。でも、底知れない不安を隠すように、前向きな言葉を呟くのだ。

「うん、うん」

 エアリスは何度も頷いた。それから意を決したように、

「その前に、わたし、ちょっと出掛けなくちゃ」

 声が震えていた。ティファにはそれが不安で、心もとなかった。だけど同時に、エアリスが不安を露わにしたことに安堵もした。エアリスだってちゃんと怖がったり、不安になったり、しなきゃいけないのだ。

「どこに?」

「うん、ちょっと」

「私たちも一緒に行くよ」

「だめ」

 エアリスはきっぱりと言った。

「だめなんだよ」

 エアリスは溜息混じりに繰り返した。それから首を振って、またティファの方を見た。

「朝、クラウドの目が覚めたとき、ティファがいてあげなくちゃ」

「どうして、そんなの、」

 ──クラウドがどうにかしなくちゃ。

 ティファは思った。けれど言わなかった。かわりに、

「そんなの重いよ」

 そう呟いた。だけど気持ちは少しも軽くならなかった。逆に、布がどんどん水分を吸収して重さを増すように、胸の中に広がった。

「ほんとうにね」

「そうだよ。私たちだって、もう苦しいのに」

「うん。うん、でも、クラウドは、ティファが見つけてあげなくちゃ。ティファ、わたしのこと、見つけてくれたでしょ。クラウドのこと、見つけてあげて」

 ティファは子どものように首を何度も振った。

「ティファ、何回も来てくれた。手、引っ張ってくれた。他のことはどうでもいい、みたいな目で、見てくれた」

 エアリスが額がそっと、自分の肩にあずけるのをティファは感じた。それからエアリスは、からかうように言った。

「クラウド、贅沢者。わたしたちにこんなに思われて」

「クラウドのことは今はいいよ。もういい」

「うん、でも、ティファは、いてあげて」

 子どもを諭すようにエアリスは繰り返した。親鳥が雛に歌を教えるようだ。自分に言い聞かせているようだと、ティファは思った。

「そんなの、訳がわからない」

「大丈夫、ティファは大丈夫」

「大丈夫なんて言わないで」

 何にも大丈夫なんかじゃないのに。あの日から、大丈夫だった日なんて一日もない。それでも、どうにか折り合いをつけて誤魔化して、生きていこうとしたのに。

 ティファは何もかもを、エアリスのことすら、責めたくなった。大丈夫じゃないことを大丈夫と思わせる彼女の優しさに、腹が立った。

 全然大丈夫じゃない。そう言ってくれる方がよっぽど優しい時もあるのだ。エアリスのかけてくれる癒しの魔法と同じだ。古い傷痕が消えてなくなるわけでも、未来の傷から予め守られるわけでもない。

「だって、おかしいのは私かもしれない」

「おかしくない」

「どうしてわかるの」

 声が強くなった。吐き捨てるように響いて、ティファはすぐに後悔した。エアリスを見ると、傷ついた顔をしていた。エアリスは黙っていた。毅然と、だけど傷ついていた。

 慈悲、安堵、諦観、戸惑い、すべてがそこにあった。

 ──エアリス、何を知ってるの?

 かつて問いかけた言葉を、ティファはもう言うことができなかった。エアリスの表情を見ていると、何も言えるはずがなかった。暴かれた秘密を、隠そうとしていないのだから。 エアリスは遠くに行こうとしている。彼女にしかできないことをやろうとしている。だけどそれを知っていることと、納得することは別なのだ。なのに、何もできない。何も。どうして、何かを助けるために、何かを手離さないといけないの?

「ごめんなさい」

 ティファは、言ってしまったと思った。それから目を逸らした。エアリスの目をそれ以上見ていられなかった。紺色の靄のかかった夜に、きれいな緑の光が淡く揺れていた。涙を湛えたエアリスの顔はなんだかいつもより幼く見えた。その目が何を意味しているのか、たとえ皆にはわからなくても、ティファにはわかったから。

「謝らないで」

 エアリスはティファの手をとった。そこに、涙が何度も落ちて弾けた。二人分の涙だった。

 ──わたしたち、もう全部、わかってる。

 でも、言葉にはしないの。

 秘密を演じ続けなければならない。自分たちが嘘を吐き続けないと、クラウドも、ティファも、エアリス自身も、壊れてしまうと思ったから。壊れて元に戻らないことが、エアリスは怖くてたまらなかった。 「もう、やめよう」

 疲れ切ったようにティファは言った。剥き出しの肩に夜の光が当たって仄白く浮かんでいた。

 エアリスは思った。うん、もうじゅうぶん。

「うん、わかった」

 自分はいつも、置いていかれるほうだと思ってきた。

 生みの母親も、ザックスも。みんな。でも、来てくれる誰かがいるんだと知ってしまった。

 それが嬉しくて、どうしようもなく悲しかった。知らない方が楽だっただろうか。いや、この思いを知れたのは幸せだ。エアリスはそう何度も何度も胸の中で繰り返した。

「楽しい計画しよう」

 ティファは掠れた声をごまかすようにわざと明るく言った。それがエアリスにはやっぱり嬉しく、寂しかった。

「うん、うん」

 楽しいことを考えようと意識すると、もう一筋の涙がエアリスの頬を流れた。

「エアリスは、心に従って行くんだね」

 ティファの声に、エアリスは顔を上げた。

 暖かい炎のような目が、心細げに自分を見ていた。ティファが涙で滲んだ目を瞬かせると、火が爆ぜるように暗い夜に光が散ったように見えた。普段の彼女の表情よりも、少しだけ大人びているようにエアリスには見えた。

「うん」

「でも、迷ってる」

「……」

「私、止めたからね。止めることも、心に従うことなの」

「うん、ありがとう」

 止めることも、止めないことも、優しさだ。わたしは、待ってるだけだった。でも、ティファはいつも動いていた。だから、あなたは大丈夫。エアリスは思いが伝わるように願いながら、ティファの手を軽く握った。それから離した。

「じゃあ、おやすみ。ね」

 エアリスが小さく手を振った。

 また明日ね、とは言わなかった。

 朝、皆の目が覚めた時、エアリスの姿を見ることはないのだろうと、ティファは知っていた。だけど今は、動き出した秘密を守ることが自分にできることなのだとわかっていた。彼女の差し出した嘘を、最後まで受け取ることを。

 波打った心が鎮まり始めていることにティファは気がついた。

 しばらく、下を流れる小川を見ていた。無数の淡い緑の光の粒が、漂っては消えていく残像を見た気がした。







(2020/08/23)

長いあとがきがあります。雑な箇条書きですが、自分へのメモも兼ねて残しておきたいので書きます、ご興味のある方はどうぞ〜。一応畳みます。

*続きはこちら*






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