なんでもない日




幸せな目覚めには色々な形があって、人によったり、時によったりしてその姿を変えるものらしい。

犬が顔を舐めてくるくすぐったさだったり、容赦なく身体の上に乗っかってくる猫の重さだったり、おろしたての清潔なシーツの感触だったり、雨上がりの快晴の眩しさだったり、挙げれば本当にきりがない。

今朝私に目覚めを運んできたのは、甘くて懐かしい香りだった。

───明日の朝は私たちがご飯作るから、ティファは寝坊してね。

───呼びに行くまで起きてきちゃだめだよ。

夕べのデンゼルとマリンの言葉を反芻しながら、何度か瞬きをする。

寝坊してと言われてもいつものように目が覚めてしまうのは、染み付いてしまった損な習性かもしれない。だけど寝返りを打ちながらこの香りを吸い込んでいると、階下で何が出来ていくのかが手に取るようにわかって、口元が緩むのを止められない。いつもは隣で寝ているはずの彼は、きっとコーヒーを淹れている。

少し前に、休日の昼食に作ってあげたそれを、子供たちはすごく気に入ったようだった。私が小さい頃、母が作ってくれたもの。

卵と牛乳と砂糖を混ぜたクリーム色の液にパンを浸して、バターを融かしたフライパンでこんがり焼くだけ。驚くほど簡単で、あっと言う間にできるのに、甘くて香ばしくて優しくて、この世のささやかな幸せを全部凝縮したような味がする。

ブルーベリーやラズベリーを散らしたり、ホイップした生クリームを添えたり、粉砂糖の雪を降らせたり、レーズンやナッツが入ったパンで作る日もあった。

甘党だった父も母が作るそれには目がなかった。母が亡くなってからも父が時々作ってくれて、私は父を見て作り方を覚えた。

甘い朝食の日、父はいつも苦いブラックコーヒーを飲んでいた。そんなに苦いものの何が美味しいのか、子供の私には理解できなかった。

───甘いものには苦いものがいいんだよ。甘さが引き立って美味しくなるんだよ。

───ティファも、大きくなったらわかるわよ。

そういうものかしら、と腑に落ちない気持ちがしたことを覚えている。

それが今では私も、普段はミルクと砂糖を少しずつ入れて、甘いものを食べる時はブラックでコーヒーを飲む。意識したわけではないのに、父の味覚がそのまま乗り移ったみたいで、不思議な感慨を覚える。

好みは、似てくるのだ。

光に透けたカーテンの格子柄をぼんやりと眺めながら、ふと思う。

もうずっと聞いていないのに、二度と聞くことも叶わないのに、どうしていつまでも声を覚えていられるんだろう。声だけでなく、母のエプロンの模様も、父の愛用していたマグカップの色も、夏にキッチンの窓から差し込む光の濃淡も、冬の朝のシンクの冷たさも、春には水仙、秋にはコスモスが花瓶に活けられていたことも。

思い出すだけで寂しくて、奪われたことが悔しくて仕方がなかった子供の頃の記憶も、今は穏やかな気持ちで振り返れることが嬉しい。

きっとこれからもこうやって、生きていく中で増えていく整理のつかない感情は、時とともに私に溶け込んで、いつか懐かしい思い出になって心のどこかに沈んでいくんだろう。履き慣れない靴が徐々に足に馴染んで、柔らかく輪郭を変えて身体の一部になるみたいに。

その思い出を掬い出してくれるのは、私の小さな家族たちの笑い交わす声だったり、キッチンから香る懐かしい匂いだったりするのだ。

幸せな気持ちが広がりすぎて、とても眠りに戻れそうにない。誕生日の前の日の夜、そわそわして寝付けない子供みたいに。そんな私を見透かしたように、母はベッドサイドにやって来て毛布の上から優しく歌うように私の肩をさするのだ。

鼻の奥がつんと痛むけれど、悲しくはない。

寝坊をさせてくれて、朝食を作ってくれて、出来たら起こしにきてくれて。こんな風に甘やかされる日は、きっと誰もが子供時代に帰るのだ。


階下で扉の開く音がして、足音が階段を上ってくる。

私はなんとなく目を閉じる。

足音が近付くと、重みでベッドが少し沈んで、もう何度も触れた手の感触が髪を撫でてくる。

くすぐったさに目を開くと、目線の先にはやっぱり見慣れた彼の顔。

「起きてたんだろ」

「……起きてた」

二度目の目覚めを運んできたのは彼。淡い金髪が今朝はあの卵色と重なる。

「用意、出来たぞ」

寝かしつけるみたいに優しく撫でてくれる手が嬉しい。

「そうみたいだね」

「……もう何だか知ってるって顔してる」

だってこの香りは間違えようがないから。

「いいの。知らない振りしてあげるの」

のろのろと上体を起こすと、彼の顔が近くに見える。どちらからともなく距離が詰まって自然に唇が触れる、当たり前で愛しい挨拶。

パパとママもきっと私の知らないところで、こんな風に親しい挨拶を交わしていたのだろう。









ティファの子供時代を想像(捏造)しながら書くのはすごく楽しいです。

(2011/09/24)



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