雪原にての
一面の雪原に風が吹き止まない。あまり寒さは感じない。私の身体に植え込まれた氷の魔力のせいだと思う。便利な体質、と皮肉まじりに思う。
突然、隣に立っていたティナがうずくまった。不思議に思って立ったまま覗き込むと、彼女の足下に花が咲いていた。風から守るように両手で包み込むようにして、ティナは熱心に見つめている。南方大陸では咲かない花だ。図鑑で見たような記憶があるけれど、名前は思い出せない。すみれくらいの大きさの、雪と見紛う真っ白な花びらをつけた小さな花だった。
「花が好き?」
私は訊ねる。ティナは弾かれたように顔を上げると、大きな瞳を何度か瞬かせてから言った。
「好きって、言うのかな…。よくわからないけど、可愛いなあって」
それから手の中の白い花を、慈しむように撫でた。
そうか、この子はずっと魔力の輪を嵌められていたから、人間が当たり前のように覚える沢山の感情を、今少しずつ学んでいるのだ。
「それが好きっていうことよ」
「そう…」
ティナはまた手の中の花を見つめ直すと、くすぐったそうな、嬉しそうな表情を浮かべた。
「セリスも花が好き?」
小さな子供みたいに……そんなの身近にいたことはないけれど……好奇心が閃く瞳で、ティナが訊く。
「うん」
あまりにも無邪気に訊くものだから、私も素直に答えることができた。当たり前の感情、忘れていたのは私のほうだったのかもしれない。
私の薔薇たちは、どうしているだろう。私にとって帝国で唯一と言っていい、心から信頼できるあの博士が、私の名前をつけてくれた薔薇。あの薔薇たちは、今日も美しく咲いているだろうか。博士は、元気でいるだろうか。会いたくても、もう二度と戻ることはないけれど。
「ティナは、薔薇は知っている?」
「ばら?」
聞き返しながら、ティナは首を横に振った。
「ばらも、可愛い花?」
「薔薇は、そうね…可愛いと言うよりは、綺麗かな。凛としていて」
ティナは言葉ひとつひとつを掬い取るようにして、考えているようだった。それからおもむろに、すっと笑った。
「セリスみたいね」
「私?」
意味を計りかねて思わず聞き返してしまう。きっと今私は所謂、きょとんという顔をしているのだろう。
「セリスは綺麗だわ」
私は思わず笑ってしまった。
まったく、なんて子だろう。
私が笑ったのが不思議だったのか、ティナがそれこそきょとんとして首を傾げる。なんでもない、と言うかわりに、言った。
「今度見せてあげないとね。薔薇とか、他にも色んな花を」
すると彼女は、「うん!」と頷くと、本当に、まるで花が咲いたように笑った。
あの温室で過ごした最後の時間、そういえば私はこの子のことを考えた、と思い出した。
優しい子。たったひとつだけ、人とは違う力を授かって生まれてきただけのこと。彼女を再び帝国に渡してはならない。絶対に。誰にともなく、私は胸の中で誓いを立てた。
ふと前を見遣ると、首だけを向けてこちらを見ていたロックと目が合う。彼は少しだけ微笑む。そしてまた前に向き直る。
真っ白な風が一段と強く吹いた。風が連れてきたのか、遠くから進軍の足音が聞こえる。真っ白な紙にいびつに滲んだ黒いインクのような、不吉な音。
「来た」
私が言うと、応えるようにティナが立ち上がる。
「うん」
頷いて前を見据えた彼女の目は、強い光を宿していた。私も倣って前を見る。それから、あの日私を連れ出した男の背中を見た。